2016年8月30日火曜日

天皇陛下 生前退位

16/08/27

最長最多TV番組『朝生』。“生前退位”がテーマと聞き、久々に観ました。

憲法改正のプロローグなのか…。9条の前に先ずは4条を…などなど、様々な憶測が流れている生前退位問題。お気持ちを表した天皇陛下のビデオメッセージ(8月8日)を、昨夜、番組の中で初めて全容を観ました。終戦の玉音放送に匹敵するショッキングな出来事として報じられたモノです。
高齢化社会の昨今、陛下のご趣旨に異論なし。多くの人々は賛同するに違いない。問題は、天皇家の存在が国体の核。その法的な位置づけをどう改正するべきか。誰も手を付けない。観て見ぬふり。それが問題なのです。

天皇家のファミリヒストリーは恐ろしく長い。匹敵するのは旧約聖書のソロモン・ダビデ王。そこまで遡らずとも、キリスト誕生前後までは系譜がハッキリしている。人類史上、唯一無二。それ故に、時代の権力者たちはその存在を都合よく利用してきた。日本史はそのオンパレードです。

さて、どこの“馬の骨”とは言いませんが、殆どが戦後生まれの政治家のセンセイたちへ。時の権力者から都合良く利用されず、日本国民を象徴する存在として、天皇家がこれからも継承できるように法整備を急いでください。知恵を絞ってください。お願いします。


 新約聖書の冒頭。ダビデが死してイエスが生まれるまでの系譜が長々と記されています。もっともユダヤ教ではイエスはダビデの子孫ではないので厄介です。が、天皇家の場合、その数倍の長さ。学問的にはその証明は不可。が、その根拠を否定する証明もまた不可。日本民族の象徴として営々と天皇家を次の世代へつなぐ。男系でなくても女系でもイイ…。法整備を急ぐ必要があります。


象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉


戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを、切に願っています。

2016年6月18日土曜日

広島と長崎が教えてくれたこと オバマ米国大統領のスピーチ

こんな歴史的な日。私は日本ではなく韓国に居ます。オバマ大統領の生の声でのスピーチは聴けませんでした。が、こうしてスピーチした内容を文字で読みました。長文。読みながら涙が込み上げてきました。オバマ大統領、ありがとう。本当にありがとう。

オバマ大統領「広島と長崎が教えてくれたのです」


71年前、とてもよく晴れた朝、空から死が降ってきて世界は変わりました。閃光が広がり、火の玉がこの町を破壊しました。これは、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたということを意味します。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか。私たちは、恐ろしい力が、それほど遠くない過去に解き放たれたことを深く考えるため、ここにやって来ました。また死者を悼み、戦争を悼み、10万人を超える日本国民の方々と、そして何千人もの朝鮮の人々、アメリカ人の捕虜も命を落としました。

その魂が、私たちに語りかけています。もっと内側を見て、私たちが一体何者なのかを振り返るように。そして、どのように今なろうとしているのか語りかけています。

戦争において、広島だけが特別なのではありません。暴力的な紛争は古くから行われています。石や槍などが扱われました。これはただ狩りをするためだけではなく、人類を殺すためも使われてきました。どの大陸においても、どの歴史においても、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。

富をもとめ、また民族主義や宗教的な理由からも悲惨な戦争が起こってきました。帝国が台頭し、また衰退しました。人々が奴隷になり、また解放の道もたどってきました。それぞれの歴史の転換点において、罪のない多くの人たちが犠牲になりました。その犠牲となった人たちの名前は、時が経つと忘れられました。それが人類の歴史であります。

第二次世界大戦は、広島と長崎で、とても残虐な終わりを迎えました。これまで人類の文明は、素晴らしい芸術を生み出してきました。そして偉大な思想や、正義、調和、真実の考えを生み出してきました。しかし、同じところから戦争も出てきました。征服をしたいという思いも出てきました。古いパターンが、新しい能力によってさらに増幅されました。そこには制約が働きませんでした。

ほんの数年の間に6000万もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供達。私たちと全く変わらない人たちです。撃たれ、殴られ、あるいは行進させられ、飢えさせられ、拘束され、またはガス室に送られて亡くなりました。

世界中には、この戦争の歴史を刻む場所が沢山あります。慰霊碑が、英雄的な行いなども含めて、色々なことを示しています。空っぽな収容所などが、そういうことを物語っています。

しかし、空に上がったキノコ雲の中で、私たちは人類の非常に大きな矛盾を強く突きつけられます。私たちの考え、想像、言語、道具の製作、私たちが自然とは違うということを示す能力、そういったものが大きな破壊の力を生み出しました。

いかにして物質的な進歩が、こういったことから目をくらませるのでしょうか。どれだけ容易く私たちの暴力を、より高邁な理由のために正当化してきたでしょうか。

私たちの偉大な宗教は、愛や慈しみを説いています。しかし、それが決して人を殺す理由になってはいけません。国が台頭し、色々な犠牲が生まれます。様々な偉業が行われましたが、そういったことが人類を抑圧する理由に使われてきました。

科学によって私たちはいろいろなコミュニケーションをとります。空を飛び、病気を治し、科学によって宇宙を理解しようとします。そのような科学が、効率的な殺人の道具となってしまうこともあります。

現代の社会は、私たちに真理を教えています。広島は私たちにこの真理を伝えています。技術の進歩が、人類の制度と一緒に発展しなければならないということを。科学的な革命によって色々な文明が生まれ、そして消えてゆきました。だからこそいま、私たちはここに立っているのです。

私たちは今、この広島の真ん中に立ち、原爆が落とされた時に思いを馳せています。子供たちの苦しみを思い起こします。子供たちが目にしたこと、そして声なき叫び声に耳を傾けます。私たちたちは罪のない人々が、むごい戦争によって殺されたことを記憶します。これまでの戦争、そしてこれからの戦争の犠牲者に思いを馳せます。

言葉だけで、そのような苦しみに声を与えるものではありません。しかし私たちには共有の責任があります。私たちは、歴史を真っ向から見据えなけれなりません。そして、尋ねるのです。我々は、一体これから何を変えなければならないのか。そのような苦しみを繰り返さないためにはどうしたらいいのかを自問しなくてはなりません。

いつの日か、被爆者の声も消えていくことになるでしょう。しかし「1945年8月6日の苦しみ」というものは、決して消えるものではありません。その記憶に拠って、私たちは慢心と戦わなければなりません。私たちの道徳的な想像力をかきたてるものとなるでしょう。そして、私たちに変化を促すものとなります。

あの運命の日以来、私たちは希望を与える選択をしてきました。

アメリカ合衆国そして日本は、同盟を作っただけではなく友情も育んできました。欧州では連合(EU)ができました。国々は、商業や民主主義で結ばれています。

国、または国民が解放を求めています。そして戦争を避けるための様々な制度や条約もできました。

制約をかけ、交代させ、ひいては核兵器を廃絶へと導くためのものであります。それにもかかわらず、世界中で目にする国家間の攻撃的な行動、テロ、腐敗、残虐行為、抑圧は、「私たちのやることに終わりはないのだ」ということを示しています。

私たちは、人類が悪事をおこなう能力を廃絶することはできないかもしれません。私たちは、自分自身を守るための道具を持たなければならないからです。しかし我が国を含む核保有国は、(他国から攻撃を受けるから核を持たなければいけないという)「恐怖の論理」から逃れる勇気を持つべきです。

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。

それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。

平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。

私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。

世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。この未来こそ、核戦争の夜明けではないということを、そして私たちの道義的な目覚めであることを、広島と長崎が教えてくれたのです。




2016年4月11日月曜日

日本のルーツ 出雲大社


■ あの人の実家 4月7日3


I say it's fun to be 20
You say it's great to be 30
And they say it's lovely to be 40
But I feel it's nice to be 50

竹内まりや『人生の扉』の歌詞。彼女の実家(旅館)が出雲大社の門前にありました。知人がそう言うのでパチリと一枚。あのヒトはこんなスゴイ環境で育ったのですネ。ステキなご主人との縁、ヒット曲の数々。運がイイ。出雲大社に感謝しているに違いありません。


■ 国歌「さざれ石」の由来 4月7日2


出雲大社のお守り。縁結びだけではない。開運や長寿にご利益あるとのこと。そう言われるままに、ついつい、両方購入。一つに絞れ切れない。どうか、いずれも叶いますように…。欲ばりで申し訳ありません。

駐車場の一角に君が代で唄われる「さざれ石」の由来が説明してありました。国歌の歌詞の意味を知らずに歌っていました。やっまり出雲大社はスゴイ処です。


■ 出雲と伊勢 確執の違い 4月7日



平安時代の出雲大社、本殿の高さが何と48メートルあった。15階立てビルの高さと同じ。巨大な神殿だったことが解る。近年、それを証明する古巨木の柱跡(3本1組)が境内から出土した。古代出雲歴史博物館に展示されていました。出雲は日本人のルーツなのです。

想像力逞しく、思いを巡らせれば、古事記に度々出てくる神々の綱引きのストーリー。島々に縄を掛けて引き寄せた云々…。その意味は半島からハイテク技術をもって渡来した人々の事を言っているのではないか。

そして、時が移り、天皇家の祖先たちが内陸部(飛鳥?)へ大移動した時、出雲を引き連れてゆくことが出来ず、止むを得ず、伊勢を拓いた。それが出雲と伊勢の確執の違いとして今に引き継がれているのではないか…。そんな勝手な“妄想”を巡られながら館内を見学しました。


■ 国内最強のパワースポット 4月7日



 出雲では名物の「そば」と「ぜんざい」を食べる。美味い。

神々の総本山「出雲大社」へ参拝。本殿裏に回り、国内最強パワースポットの岩壁へ両手を当て、盛りだくさんの願い事をしました。

出雲大社は縁結びの神様。縁起がイイ事に撮影中の新郎新婦と遭遇。桜満開。サイコウの日和でした。お幸せに…。

そして、敷地に隣接した古代歴史博物館をユックリ見学。自称“歴史好き”のオジサンとしては大満足の出雲への旅でした。





■ 出雲への旅 4月4日



昨日、神武天皇祭。初代天皇が崩御したのが紀元前566年3月11日とか。グレゴリオ歴で換算すると4月3日。そう言うことになっています。何と初代天皇は在位76年。古代史の天皇家一族は皆さん超長寿。なにせ神話の世界です。卑弥呼より遥か700年以上も前の話しですからネ~。

それはそれとして、明日、所用で島根県へ。時間が許せば、ぜひ、出雲大社へ。初詣、「二拝四拍手一拝」の特別作法でお参りしてきます。

2016年4月9日土曜日

世界一貧乏な大統領の、突き刺さるスピーチ 


■ 今の日本 どう思いますか 4月9日


あの人 が 日本 に 来た。
南米のスイス ウルグアイ の 元大統領 ムヒカさん。 今の日本を どう 思いますか。
あなたが 日本の トップ なら 何を どう しますか。その ワケ は …。

あなたから 学びたい…。

これまでの20年で 日本人 が 失った のは 何か ?
これからの20年 で 日本人 が 得る のは 何か ?

あなたは 日本 を どう 見てる のか を…



「世界でいちばん貧しい大統領」が日本の学生に語った4つの人生訓


昼下がりのキャンパスに300人以上の学生と多くの市民が集まりました。ウルグアイの前大統領、ホセ・ムヒカ氏の講演を聞くためです。

ホセ・ムヒカ前大統領は、その質素な暮らしぶりから「世界でいちばん貧しい大統領」として知られ、2012年にブラジルのリオで行われた国連会議でのスピーチでは「世界が抱える諸問題の根源は、我々の生き方そのものにある」と説いて、世界にその名が知られるようになりました。

そんなムヒカ氏が先日、書籍『ホセ・ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領』(角川文庫)の発売を記念して初来日を果たし、東京外国語大学(東京都府中市)で講演会を行いました。80歳を迎えたムヒカ氏が、真剣な眼差しで聞き入る学生たちに語ったのは「世界を変えるために戦った経験から得られた4つの教訓」です。以下、日本の若者に向けたムヒカ氏の言葉をまとめました。

1. 消費主義に支配されるな


現代の消費主義に支配されてはいけません。でもこれは、言うのは簡単です。消費主義は、蜘蛛の巣に引っかかるようなものです。企業はこれを買え、あれを買えとあなたにお金を使うように仕向けてきます。それに甘んじてモノを買い続ければ、あなたはもっとお金を稼ぐために、もっと長い時間を、お金を稼ぐために費やすことになるでしょう。そうなると、あなたの自由な時間はどんどん減ってしまいます。
本当に必要なものだけを買うようにしてください。そうすれば、あなたの自由な時間はもっと増えます。貧乏とは、多くのものを必要だと思ってしまう心のことです。無限にモノをほしがってしまう欲こそが「貧しい」ということなのです。

2. 歩き続けよ


人生でもっとも重要なことは、勝つことではありません。歩き続けることです。それはつまり、転んでも毎回起き上がること、新たに何かを始める勇気を持つということ、何かに打ち負かされたときにまた立ち上がるということです。
私は若い時、世界を変えるために戦いましたが、残念ながら世界を変えることはできませんでした。そして私は牢獄に入れられて10年以上を過ごしました。これは私にとって非常につらい時でした。でも、その辛い時間がなかったら、今の自分はなかったと思っています。

3. 同じ志を持つ仲間を見つけて闘争せよ


社会は集団というツールがないと変わりません。もしあなたが今の現状に不満を持っているなら、同じように不満を持っている人を見つけて仲間にしてください。仲間を集めて集団を作って主張すれば、大きな力はなくても、社会に意識を植えつけることができます。
これまでも、社会はこうして少しずつ変化してきました。100年も前は、労働者は15時間も18時間も長時間の労働をするのが当たり前でした。そんなとき、ある人がこんなことを言い出したのです。「1日の労働時間が8時間にして、寝る時間は8時間必要で、それ以外のプライベートな時間が8時間は必要だ」と。当時の人々の多くは「コイツはなんて頭のおかしいことを言うんだ」と思ったことでしょう。
でも、その人は仲間を集めて、闘争を始めたのです。今では8時間労働が当たり前になっていますが、自由な時間のために戦った人がいるのです。今ではそんな闘争をした人は忘れ去られているのかもしれませんが、彼らは闘争することで他の人の意識を変えたのです。
社会が変わり続ければ、1日の労働時間は4時間が当たり前になることも十分起こりうることです。
日本では、人々があまり希望が持てないと聞きました。若者の多くが投票にいかないそうですね。彼らは、社会が変化するということを信じていないのでしょう。
何か魔法のようなものが社会を変えてくれると考えないでください。あなたと同じ志を持つ人はたくさんいます。仲間を見つけて集まってください。そして、戦ってください。

4. 自分の利己主義を抑えよ


私は「最後の審判」を信じていません。でも何らかの人生の時点で、鏡の前に立ち止まって自分自身を見つめるときが来ることはあると思っています。そんなとき、これまで何かをやろうとして、何度も失敗したけど、行動に移した数々のことを思い出すかもしれません。「100やりたかったことがあるとすれば、5しかできなかったけど、行動に移すことができて有意義だった」と思えるかもしれません。
でも反対に、「私は人生で何もしてこなかった」「私の人生は浪費の連続だった」、「誰に対しても、手を差し伸べなかった」、「誰かのために時間を費やすことなんてなかった」と思うこともあるかもしれません。そんな人は、鏡の前に立ち止まったとき、自分の姿を見て失望するでしょう。そこに映っているのは、自分のエゴイズムでしかないからです。
すべての生命はエゴイズム(利己主義)を持っています。それは自分自身を守るために、自然が私たちに与えてくれたものです。でも、人間はひとりでは生きていけません。必ず他者を必要とする生き物なのです。
他人に勝つために戦うのはやめてください。そうではなくて、自分自身の心の中にあるもののために戦うのです。


講演や質疑応答の間、ムヒカ氏が何度も繰り返していたのは「闘争せよ」という言葉でした。「闘争を生まないことが理想だ」と教えられてきた人にとって、この言葉には抵抗感があるかもしれません。でも、ムヒカ氏はこう続けます。

あなたが生きている限り、他者との衝突は避けられません。大事なのは、コンフリクトを起こさないことではなく、どうやってコンフリクトを解決していくかということです。

あなたが闘争しないと社会は変わっていかない。ムヒカ氏のメッセージは、平和すぎる日本に向けられた警鐘なのかもしれません。


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絵本『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』になった有名人。南米ウルグアイのムヒカ大統領が任期満了で退陣(2月28日) 。日本のTVニュースでも取り上げられました。“南米のスイス”と称される程の福祉先進国ウルグアイ。いつか行ってみない国の一つです。リオ会議(環境の未来を決める会議)でのムヒカ大統領が演説した内容が題材。小説になり映画化されました。
ムヒカ大統領は自分の資産の80%を寄付し、郊外の質素な住宅に暮らしている。 給与の大部分を財団や政府などに寄付し月1000ドル強で生活するしているという。彼のようなシンプルな政治家を選び、大統領まで押し上げたウルグアイ人がスゴイ。お疲れ様でした。リオ会議でウルグアイ大統領のホセ・ムヒカ大統領のスピーチです。


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会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。昔の賢明な方々、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

2016年3月30日水曜日

47年ぶりの再会


■ 人気の観光スポット 3月30日2

 半世紀ぶりに訪日したご夫婦。今回の旅で「最も印象に残ったのはどこ…」と訊いてみました。何と瀬戸内海の小島にある美術館。現代アートが島中に点在する「ベネッセアート直島」。日本を代表する建築家、安藤忠雄が手掛けた美術館として有名ですネ。そして、空海の里「高野山」。宿坊に泊まったとのこと。

いずれも私は行ったことがありません。呆れ顔で「本当に貴方は“Japanese”なの?}と叱られました。いずれ一度訪れます。ハイ…。

広島では民宿泊。宮崎映画のモデルになった町とのこと。調べてみたら“Ponyo on the cliff”(崖の上のポニュ)の町だと分かりました。福山市の“鞆の浦”。宮崎映画のファン。大感動だったようです。

観光スポットの定番。京都や奈良は、あまり興味がない様子でした。浅草も同じ。やはりインターネットの時代です。来日するまでにネットで情報を収集。ある意味では、日本人よりも最新の詳しい観光情報を得ている様子でした。




■ 渋谷で会食 3月30日


 帰国前日の昨夜、渋谷ハチ公前で待ち合わせ。会食しました。昨日は快晴。都内の桜の名所は一斉に開花。最高のシーズンに来日しましたネ。半世紀ぶりの日本訪問を満喫したようです。

共に名門スタッフォード大医学部卒。ご夫婦で医師。長年、大病院勤務。懸命に働き、4人の子を育て、今は4人のお孫さんに恵まれている。慰労を兼ねて日本への旅。いい2週間だったようです。
「次は紅葉の時に…また来たい」とのこと。楽しい夕食でした。

私たちは戦後間もなく生まれた。米国では“The Baby Boomers”と言い、日本では“団塊の世代”と言われます。親世代よりこの世代は豊かな生活環境が実現した。が、子世代は厳しい生活環境がある。そして、親世代は高齢化。以前より長く世話しなければならない。加えて、子世代も以前より長く支援しなけれならない。上と下とに挟まれた苦労の多い世代でもある。米国では“The Sandwich Generation”と言うのだそうです。日本も米国も、取り巻く世代環境はあまり変わっていないようです。そんな話をたくさんしました。勉強になりました。

日本酒は滅多に飲まないのですが、お店の方の勧めるままに辛口一献。銘柄は忘れましたが抜群にウマイお酒でした。安部首相のお国(山口県)のお酒とのこと。オバマ大統領が来日した時、このお酒を飲んだらしい。お店の方がそう説明してくれました。本当に美味しい日本酒でした。





■ 人気の旅館 稼働率100% 3月19日

47年ぶりの奥さん、ご主人は初来日。何かと細々と世話をやく奥さん。仲良しご夫婦です。新幹線で大阪へ。奈良・京都を巡り、次は広島・宮島へ。そして、東京へ戻る。さて“Ryokan”に泊まりたいとのこと。欧米人に人気の上野・谷中周辺の宿はどこも稼働率100%。3ヶ月先まで満室とのこと。ビックリ…。この先、オリンピックを控え、どうなるのでしょうか…。どこかお勧め“Ryokan”を知っている方、教えてください。


■ あの日の思い出 3月18日

向三軒両隣。古典落語で聞く言葉ですが、半世紀前、実家があった仙台下町ではまだこの言葉が“生き”ている時代でした。

我が家に若くてベッピンは“外人さん”が来た。すぐに町内中に知れ渡り、大ニュースになりました。好奇心の強い“外人さん”だったので軽い気持ちで「着物を着てみたい」(?)と言ったのでしょう…。それが向こう三軒両隣へ、ヒトからヒトへと伝播し、次第に大袈裟なり、思わぬ人々が動き出す。いつの間にか“振袖”ではなく本格的な“花嫁衣裳”に大化けします。母親の大の親友だった美容院の女将さんがリーダー。貸衣装屋さんやカメラ好きの伯父さんまで巻き込んだプロジェクトになります。もちろん、全員ボランティア。外人さんに花嫁衣裳を着せ、写真撮影することになりました。私の役目は床の間の掃除。前夜から拭き掃除しました。
あの時、大騒ぎして撮影した写真は、私の手元には一枚もありません。落語のような出来事。半世紀前の思い出です。

この騒ぎから程なくフィリピンへ旅立ちました。写真を頂けたのか否か、よく覚えていません。残念ですね。


■ アメリカ女性の知性と行動力 3月17日2


半世紀前、東京滞在中。私の実家(仙台)へお連れした事があります。両親が大歓迎で迎えてくれました。お袋自慢の漬物や煮物など“田舎料理”を美味しそうに食べてくれた。何と当時の実家の住所や両親名を覚えてくれていた。それが、今回、再会できる重要な情報になりました。両親は生前、この若いアメリカ女性の知性と行動力がよほど印象深かったようで「今ごろあの人はどこで何しているかネ~」と思い出していたようです。

スーッと後になってから、アクアの仕事で彼女の故郷(ニューメキシコ州アルバカーキ)を訪れる機会がありました。この街で生まれ育ったのか…と感激。彼女は単なる英語の先生ではなく、私にとってはアメリカ人を象徴する存在でした。今回、半世紀ぶりの再会なのですが、時の隔たりを全く感じさせない不思議な時間でした。青春の思い出は今もフレッシュです。


■ 半世紀ぶりに再会 3月17日

47年ぶりに再会。この女性が私の英語の先生。アメリカ女性の考え方や生き方など多くを学びました。

当時、スタッフォード大の医学生。休学して東京に滞在していました。今回、ご主人と一緒に来日。ご夫婦で医師。半世紀の“空白”が感じられない程、楽しい一時でした。

友人がアレンジしてくれた会食の場所。東京タワーの下、こんな素晴らしい処があるとは、さすが大東京です、スゴイ…。





■ イイ事は突然訪れる 2月17日


イイ事は突然訪れる。今日はそんな日です。

半世紀前、私の英語の先生だったアメリカ人。久しく音信がなかった。渡米の際、いつもどうしているのだろうか...とよく思い出しました。当時、彼女は医学生。休学して日本へ。東京に18ヶ月滞在しました。間もなく帰国。復学。私もフィリピンへ。次第に消息が分からなくなりました。

今回、様々な人々を介して、近々、彼女が訪日するとを知りました。47年ぶりに再会します。胸が躍ります。その後、どんな人生を歩んだのか。どんなヒトになっているのか。今からお会いするのが楽しみです。

SNSはスゴイ。彼女に辿り着きました。ドクターになっていました。病院に勤務後、今は開業医。ヤッパリ。聡明な方でしたから…