2010年12月25日土曜日

キリスト教とユダヤ教の違い。もう一つのメリークリスマス!



今日(12月25日)は世界一有名なヒトの誕生日。言わずと知れたイエス・キリストです。何と地球上の4人中1人がこの日を祝うのだそうです。が、しかし、キリスト教徒は1人だけで残りの3人はそれを口実にするだけ。だいたいキリストがこの日に生まれたかどうかは極めて怪しい。1月6日や3月15日など諸説あるからです。この日を祝うことになったのは4世紀以降。その理由は古代ローマ時代の太陽神祭が次第にキリスト教化したからと言うのが定説です。この日にギフト交換する風習も古代ローマ人に由来するらしい。

それから、イブの夜、雪景色の中をさっそうと登場。トナカイのそりに乗り、煙突から入り、靴下の中にギフトを入れる赤い服着た白ヒゲの小父さん。例のサンタクロースは北欧のクリスマス伝説に由来する。この二つの異なる物語、①キリスト誕生、②クリスマス伝説の二つが一つに合体。これがヨーロッパ⇒アメリカへ伝播。クリスマスが祝う口実となり、派手さが増すのは案外新しい風習のようです。

無知とは恐ろしいもので、イスラエルへ行った時のことです。死海からテリアビブへ戻る途中、イエス生誕の地(ベツレヘム)を訪れました。ガイド役の方へ「この辺では盛大にクリスマスを祝うのでしょうね」と気軽に言ったのが運の尽き。顔色が一変「私たちは祝いません」と冷やかな態度。急に気まずい嫌な雰囲気になってしまいました。

旧約聖書から新約聖書まで、400年間の謎の空白があります。旧約時代ラストの預言者ミカが「やがてメシヤ(神の使者)が来る」と言い残して死にます。そして400年後、そのメシヤとしてイエスが誕生する。新約時代はそこからスタートします。しかし、ユダヤ教では未だにメシヤの到来を待ち望んでいます。何故ならば、大工ヨゼフの息子イエスはメシヤではない。メシヤはダビデ王の子孫でなければならないと彼らは言っています。だからクリスマスなど言語道断。"フザケタことを言うナ"なぜイエスを祝わねばならないのか。その理由が全くないと言う訳です。

なにわともあれクリスマスを口実に飲み食いする側としては、ユダヤ教からもキリスト教からも怒られる事を覚悟の上、今夜も、昨夜に引き続き、乾杯です。Merry Christmas!

2010年12月18日土曜日

師走だからこそノンビリと適当にサボる

ストレス社会の現代。うつ病はよくあるフツウの病気です。有病率は人口の3~5%で年々急増しているとのこと。知人の中にも自称うつが何人かいます。その病状の基本は3つ、①うつ気分、②活力低下、③ネガティブ思考とか。身体症状としては、全身倦怠感、食欲不振、不眠、頭痛、耳鳴り、吐きけ、腹痛、便通異常、腰痛、手足のしびれなどがあるらしい。

そう言われると思い当たるフシがいくつもあります。そうダ…私もうつかも知れない。キットそうに違いない、早速、幼馴染へデンワ。彼は精神科医です。小学生の時から我ら仲間とは別格な存在で成績優秀。結局、子どもの時からの希望通り今はドクター。「オレうつかも知らないだヨ」と言うと"何ッお前が?!"と始めは真面目に応対してくれたのですが、次第に取り合わなくなり「酒でも飲んでサッサと寝ろ!」と怒られました。彼曰く、うつと言い張るヒトにうつはいないとのこと。しかし、私はうつになりやすい性格らしい。その特徴は仕事熱心、こり性、生真面目、几帳面、正義感。「自分の責任だ」と思い込んでしまう癖が確かにある。「でも、お前は違うナ。子どもの時から案外いい加減なところがあったからナ」と言われてしまいました。その通りです。これも思い当たるフジがいくつもあります。とは言え、ストレスの多い仕事なので「注意するに越したことはない」と以下の4つを助言してくれました。つまり…

①オーバーペースにならないように適当に手を抜く
②メリハリのある生活リズムで暮らす
③何事にも執着せず時々気分転換をする
④独りでボーッとする時間を創る

私同様、自称「うつ病ダ」と力んでる方々へグッド・アドバイス。お互い注意しましょう。彼曰く、適度のうつの方がイイ。仕事の出来も良く、成果も上がるのだそうです。そして、うつを理由に適当にサボることもできる。案外都合がイイようです。が、程度問題で深刻になると手ごわい病とのこと。多忙な師走だからこそオーバーワークにならないように適度にサボる。何事もそれが一番です。

2010年11月24日水曜日

懐かしいベトナムの一本道



食べ物と旅行は人気TV番組の定番。どの局も代わり映えがない。何気なく観た番組がベトナムへの旅でした。それも国道1号線を縦走するバスツアー。安土桃山時代、日本人街があったとされる中世の貿易港、古都ホイアンからグアンガイまでの風景でした。とても美しい海岸が続くルートです。

5年前、知人たちと持参した自転車でインドシナ半島を縦断しました。ベトナム終戦から30年目の年です。国道1号線は各地で高速道路建設の基礎工事中(日本の大手ゼネコンの看板が立っていました)でしたが、TVで見るかぎり、当時と変わらない風景でした。グアンガイ近くで不覚にもパンク。独りで修理。一行と大幅に遅れ、必死で彼らを追いかけた懐かしい一本道が映し出されました。

2週間の自転車の旅でしたが日本人とは誰一人会うことがなかった。でも、今は何処も日本人旅行客で賑わっていることでしょう。食材の自然な味を活かした美味しい料理。お洒落な服装と小物類。人々の優しさと笑顔。ベトナムは日本人好みの国です。出会ったヒトへのお土産にと思い、出発前に100円ショップでサングラスを購入。ホイアンで出会った少女らに手渡すと小声で"Thank you!"。"Where have you been?"と流暢な英語で聞いて来ました。あの子供たちは今頃どうしていますかネ。

2010年11月22日月曜日

犬も歩けば棒に当る?


口は災いのもと。軽い気持ちで発した言葉が命取りになる。一国を司る大臣クラスも一言二言軽々に口にしたことが度々TVに流れ、その後「申し訳ありませんでした」と頭を下げても人々の中に記憶され、結果、更迭される。失言の重さこそ違いますが誰にでも起こりえることです。字も怖いですが口も怖いですね。

この十年イヤ二十年…とにかくこの閉塞感の原因の一つはクルクル変わるトップの顔です。その度に仕切り直し。その場足踏みで一向に前に進まない。この現状はどうすればいいのか。前へ一歩踏み出す方法は無いものでしょうか。

そんな中で明るいグッドニュースはノーベル化学賞受賞。それも二人。これまで受賞した日本人は計18名(今回を含み)。そのうち7名は化学賞とのこと。サイエンスが高いレベルにある証明です。嬉しいですネ。彼らの実績はいずれも30代後半、研究の中で閃き、成し遂げた成果とのこと。やっぱり閃きは若くて柔軟な思考に宿るわけです。今回受賞した「クロスカップリング」と称する有機合成法を研究した鈴木章博士(北海道大学名誉教授)。初会見で何気なく発した言葉がとても素晴らしい。強く印象に残るコメントでした。その言葉とは…セレンディビティー(serendipity)。

聞き慣れない言葉です。辞書によると、失敗してもそこから見落とさずに何かを学び取る能力、成功に結びつける才能とのこと。多くのノーベル受賞者はセレンディビティーに長けたヒトであることは間違いありません。単に幸運に恵まれただけではない。要するに、何かを発見したという"現象"ではなく、何かを発見する"能力"を指すらしい。チョットした偶然から閃くことを意味しているとのこと。言葉の語源は18世紀のイギリスの作家ホレス・ウォルポール(写真)の寓話『セレンティプの三人の王子』(The Three Princes of Serendip)からきた造語とのこと。セレンティプとは植民地だったスリランカのことらしい。

犬も歩けば棒に当る。コロリ転げた木の根っこ。これもセレンディビティー。つまり、犬は棒を探して歩いていたわけではない。木の根っこを目指して転んだわけでもない。たまたまその時ピーッと閃いたわけです。常日頃から問題意識を持つことがいかに大事かと言うことです。大臣も官房長官も常日頃から問題意識を持っていた。だから口が滑ってしまった。しかし、彼らにセレンディピティーがあれば、この失言から何を閃き、成功への足がかりにする。そんな才能豊かなヒトであることを望みます。彼らが30代後半だとかなり期待できるのですが、歳を取り過ぎているのでダメかも…。とにかく、何を考え、何を閃くか。それが問題なのです。

2010年11月11日木曜日

昨今の出来事をコペルニクスさんに聞いてみたい

地動説を唱えたコペルニックスが死罪になった時「悪法も法は法だ」と言って刑を受けたとか。国家の基本は法律に準拠した政治です。一企業ですらコンプライランス(法令遵守)が強く求められているのが現代。悪法はイヤですが法律遵守でなければ法治国家とは言えません。

それが、この国では時々不思議な事が起きます。例えば、中国漁船衝突事件。いかに大国チャイナとの領土問題だとは言え、逮捕取り調べ中の船長を急に保釈。帰国。その上で被疑者不在で立件しようと言うのですからネ。それも地方検事の"独自の判断"でそうなったと政府首脳が弁明する。ですから、諸外国から変な国だと冷笑され<コペルニックス的転回>と揶揄されるわけです。何と言われようとも、結果的に国際会議場の廊下で中国トップと"立ち話"が出来た。それが情けない。軽くて弱い今の日本外交を象徴してますね。

そして、今回のYouTube事件です。政府首脳が急に"国家秘密"だと言い出したビデオ画像を海保職員が投稿。守秘義務違反で処罰を検討中とのこと。一端ネットに出たら一瞬で世界中に広まる。インターネットの怖さですね。もしかして今回も地方検事の"独自の判断"とやらで意味不明の決着となるかも知れません。お得意のコペルニックス的転回というヤツです。やっぱりこの国はおかしい。上も下もガラパゴス化しています。

横浜みなとみない地区は今、2万1千人の警察官で込み合っています。例の世界の超トップが集結するAPEC会場です。ですから、今回は立ち話どころか廊下で擦れ違うことも難しいかも知れません。世間では現政権のことを『仙官ヤマト』と言っているそうですネ。このヤマト、この先どこへ向かって行くのでしょうか。

2010年9月27日月曜日

日本人はどこへ行ってしまったのか

講習会へお招きしたスイス人の先生と朝食をご一緒しました。のっけから前日のニュースが話題になりました。つまり、拘束中の中国人船長を急遽保釈。帰国させたことです。そのことへの感想と意見を聴かれました。いまの日中間のパワー格差を考えると止むを得ない。が、情けないのは国家戦略の無さです。シナリオ無き外交とでも言うべきか。最悪の結果にガッカリしているとボヤくと、彼は「日本政府の悪しき判断は多分、日中関係だけでは済まないであろう。アジア諸国全体へ波及するに違いない」とキッパリ言い切りました。ドッキ(!)…。

スイス人気質を現す一つの例として語り継がれているストーリがあります。それは第二次大戦時、旧ドイツと交わした交渉劇です。当時、世界最強だったヒットラー率いるナチ軍がスイス経由で祖国オーストラリヤへ凱旋する時、無条件降伏を迫ります。スイス政府は一歩も譲らす、粘り強い外交交渉をします。そして、万一、交渉決裂した場合を想定し、主要道路に掛かる大きな架橋へ爆弾を設置。ドイツが侵攻してきたら全ての橋を爆破すると宣告。ビットラーはギリギリまで迫りますがスイスは譲りません。結局、スイス侵攻を断念、迂回したのです。

そんなスイス人の子孫から観ると、今回の日本人の不甲斐なさに呆れたに違いありません。なんせ私たちの祖先は100年前、二つの大国、中国&ロシアを相手に絶対絶命の戦いに挑み、勝利したのですからネ。当時の世界情勢と今とでは大違い。が、しかし、私たちは彼らの子孫には違いありません。日本人の気骨と精神。せめてあの時のスプリット(Spirit)とアイデンティティー(Identity)だけは持ち続けねばなりません。そんな意味のことをスイス人の先生から遠まわしに忠告されました。ガック(!)…

2010年9月23日木曜日

中国も「変」ですが日本もかなり「変」です

都合のイイ言葉があるものですネ。説明できない事、都合の悪い事、何か言いにくい事があれば「地球温暖化のせいかも知れませんネ…」と言えば一応言い逃れができます。今年の夏は宮崎での口締疫、各地でのゲリラ豪雨と猛暑。訳が分からないので地球温暖化(Globe Warming)のせいにしておきましょう。とにかく暑かった。東京で30℃以上の真夏日が71日とか。昨日は「中秋の名月」(十五夜)だったのですが暑い一日でした。が、ついにこの暑さも終わり。今日は朝から秋の長雨です。

そして、尖閣列島での中国漁船の領海侵犯に絡んだ衝突と拿捕事件です。世界第二の大国のはずの中国ですが、そうとは思えぬ過激なリアクションにびっくり。日本人学校への投石。官民あげての非難と罵声。日本政府関係先へのサイバー攻撃。人気芸能人コンサートの中止。なんと言う事でしょうか。過去の日本人がチャレンジした植民地政策への仕返しなのでしょうか。満州事変→大東亜共栄圏。旧日本陸軍の無謀なゴリ押し。あの時の屈辱的な記憶が未だに中国人に強く残っているからでしょうか。それともあの列島下にあるとされる地下資源への利欲からなのでしょうか。訳が分かりません。昨日からスタートしたNYの国連総会。管総理のデビュー演説も首脳会談も、中国側からシッカリ無視されているらしい。それにしても大人気ない話しです。大国のパワーエゴ。そう思いませんか。

そして、障害者優遇制度の郵便特約に端を発した行政高官の逮捕劇。控訴不可。容疑者とされた女性の毅然とした立派な態度と冷静な会見の言に感激しましたネ。それに比べ、検事自らがした信じがたい行為。名誉か権威か、何を守りたいためにしたのか分かりませんが、証拠改ざんしたと言うのですから驚きです。公益や治安を理由に検察と警察がタックを組めば最強の国権と化します。その気になれば、どんな事であっても、意のままに事件化できることになる。一市民は言うに及ばず、なんなら国会議員でも、意図する犯罪者に仕立て上げることだってできる。何と恐ろしい事でしょうか。それがこの日本でも起こり得るのだとしたらゾーッとします。とんでもない事です。

中国も日本も何か「変」です。これも地球温暖化のせいでしょうかネ。

2010年9月13日月曜日

アラビア人の不可解な価値観



47の物語から成る旧約聖書の冒頭は有名な創世記です。アブラハムから始まる親子3代の族長物語。その舞台となったのがチグリス・ユーフラテス川に栄えたメソポタミア文明。現在のイラクの地です。アメリカ軍はその地に7年間進駐。1兆ドルの巨額な戦費を投入。4500人の若者(アメリカ人)が戦死。その30倍とも40倍とも言われるイラク人が死んだとされます。2001年9月11日のNY多発テロ事件に端を発した二つのブッシュ戦争の一つ。もう一つは現在も進行中のアフガンです。アメリカの都合で侵攻。彼らの都合で撤退。「イラクの自由作戦」と命名されたその戦争が2010年8月31日で終了しました。両国ともに得たものは何もなく、失ったものばかり。悲惨な結末です。アメリカはベトナムから何を学んだのでしょうかネ。

とは言え、イラク側にも責任の一端はあるのでは…と私は思っています。その訳はアラビア人の不可解さです。なぜ、あの時(7年前)、フセイン(イラク大統領)はブッシュ(アメリカ大統領)が疑惑を招くような不思議な言動を繰り返したのか。なぜ、有りもしない核兵器(?)をさも有るが如く、思わせぶりな態度を取ったのか。フセインは駆け引き上手なアラビア人の英雄。ですから、その得意な駆け引きに自ら溺れたのでしょう。まさかアメリカが本気で攻めて来るとは思わなかったのかも知れません。フセインもブッシュも払った代償は計り知れぬほど大きい。傷跡を癒すには長い時間がかかるに違いありません。

理屈好きで駆け引き上手なアラビア人気質について、私は体験的に学習したことが多々あります。二十代後半、フィリピンの国立大学に勤務していた頃のことです。訳あってイラク人の中年男性と半年ほどルームメイトだった時期があります。当時、彼はイラク首都バクダット市内の小学校の校長先生。教育学博士号を取得するためフィリピンへの国費留学者でした。

ある日、私の私物であるタイプライター(今では見かねない代物ですが…)を貸してくれと言われました。気前よく貸したのですが、その後、何度催促しても返してくれる様子が全くありません。シビレを切らした私は、彼が留守中、私の机の上にタイプライターを戻しました。使用中、彼が帰ってくるなり、猛烈に怒り出します。「なぜ私の許可なく、勝手に戻し、使っているのか」と言うのです。要するに占有権と使用権とを分け、使用権のある彼の方が優先されるべきだと言い張るのです。

万事、これに類した理屈っぽい話しが数多くありました。私との駆け引きを彼は楽しんでいるようにも見えました。それに加え、朝夕、コーランを英訳して聞かされます。イスラム教とキリスト教の考え方の違いが少しは分かったので為になったのですが、宗教談義にヘキヘキした頃、彼は他のイラク人留学生と一緒に住むことになり、引っ越して行きました。ホットしましたネ。その時の開放感は何とも言えず、独りで祝杯を挙げた程です。英語が上手だった彼、アブラハム・ラヒム氏は今頃、どこで、何をしているでしょうか。

2010年8月27日金曜日

米国のソメイヨシノと日本のハナミズキの違い


米国の首都ワシントンDCのホトマック河畔(タイダルベイスン)には数千本の桜(ソメイヨシノ)が延々と続く並木道があります。世界的にみても屈指の桜の名所だと言われます。もとはと言えば、1912年3月27日、東京とワシントンDCとが姉妹都市になった際、東京からソメイヨシノの苗木3千本が贈られたことに端を発します。その返礼として、ワシントンDCから、北米原産のハナミズキの苗木3千本が東京に贈られました。その後、ワシントンDCのソメイヨシノは大切に育てられ、二世三世へと数万本に株分けされ、今日に至っているそうです。

毎年、満開時に全米桜祭(National Cherry Blossom Festival)と称する記念式典が開催されてます。10年毎に大きな式典があり、2002年は90年目にあたる年でした。私が招かれたイベントは座間キャップ他で駐在経験のある高級軍人のご婦人方の「東京婦人交流協会」という団体があり、そこが主催したイベントでした。その休暇日にスミソニアン博物館へ行ったわけです。

ちなみに、東京に贈られたハナミズキは日米開戦と同時に軍の命令で一本残らず切り倒されました。現在、東京の街路地に白や淡いピンクの花を咲かせているのは、戦後、再び米国から贈られたモノとのこと。戦時中も大切に育てられた米国のソメイヨシノ、一本残らず切り倒された日本のハナミズキ、日米間の余裕の違いを感じますね。

2010年8月26日木曜日

You Can Do it!



我が家に滞在中の客人。スイス人親子。スイス人といってもフランス語やドイツ語ではなくイタリヤ語圏の方。四ヶ国語が話せるというのですから羨ましい限りです。父親は世界的に有名な水中リラクゼーションのリーダー。息子は18歳。工科大で航空工学を学ぶ学生。卒業したら空軍へ。そして、将来の夢は「宇宙飛行士」になること。その理由を聞いてギック(!)。子供の頃、父親に連れられ米国へ。首都ワシントンDCを訪れた時、スミソニアン博物館での衝撃が「夢」の発火点になったとのこと。同博物館で宇宙工学に関する数々の展示を観たことが強く影響しているのだそうです。昨今の日本の若者が失いつつある若者独特の「夢」への拘りと熱い想いを感じました。

彼ほどではないにしろ私もスミソニアン博物館には思い出があります。2002年4月、全米桜祭(National Cherry Blossom Festival)のイベントの一環でワシントンDCを訪問。その際に6つある同博物館の中でも特に人気のある宇宙博物館をジックリ観ました。広い玄関ロビーの両側に展示してあったのがアポロ11号と同13号。11号は、ご存知の通り、1969年7月20日、人類初の月面着陸に成功したモノ。13号は「成功した失敗」(Successful Failure)と称され映画化されたことでも知られています。1970年4月11月、地球から33万km離れた宇宙空間で事故発生。三回目となるはずの月面着陸を急遽断念。地球へのUターンを試み、奇跡的な帰還に成功したモノです。双方ともに人類の進歩に大きな貢献をしたのですが、ある意味、成功した11号より失敗した13号の方が大きな影響を与えました。

二つの実物が四分の一カットされ内部が見える状態で展示されていました。機体は小さく、機内の広さは『押入れ』程度。宇宙飛行士3人(男)が、肩を寄せ合い、息を潜め、励まし合っていた映画の一シーンが頭を過ぎりました。計器も機材も貧弱。こんな機器を手動で操縦しながら壮大な宇宙空間の中を小さいな地球へ向かって戻ってきたのか。そう思うと背筋が寒くなりました。

たった9年間の準備期間で月面着陸。ヒトの足跡を残してきた。その人類の英知と勇気は信じられないほどの偉大さを感じます。アポロ計画の数々の展示品の隅に、フランスの哲学者アランの言葉とされる有名な一節が記さていました。すなわち…

悲観は感情から生じ、楽観は意思から生じる
Le pessimisme est d'humeur; l'optimisme est de volonte

ちなみに、どこのスミソニアン博物館も拝観料は無料。特に小学生は優遇され、全員に有名なバッチが贈呈されます。子供たちは誇らしげにそのバッチを胸元に付けて館内を歩き回っています。それはスミソニアン協会創立者ジェームズ・スミソンの口癖だったとされる言葉で"You Can Do it!"(君ならキッド出来る)です。それが記された大きめなバッチです。宇宙飛行士になる夢を追っているスイス人の大学生も、幼い時のその日、胸元にあのバッチを付けて館内を観ていたに違いありません。色々な場所へ子を連れて行くことの大切さを痛感します。とは言っても、今の私には全てが遅すぎることなのですが…。

2010年8月22日日曜日

Japan as No.3

今から30年前、新鋭の社会学者だったハーバード大教授エズラ・ボーゲル博士が書いた『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(Japan as No.1)は世界的なベストセーラーとなり、日本では流行語にもなりました。本の趣旨は<世界一に成れるかも…>なのですが多くの日本人は<世界一に成れた>(Japan is No.1)と勘違い。舞い上がりました。本の中で博士は奇跡的な高度成長を成し遂げた日本の4つの社会システムをあげ、世界に類を見ない優れた国だと褒め称えました。その4つとは、①産官提携の強さ、②商品の質の高さ、③公共教育の水準の高さ、④治安の良さ、です。今となれば、どれもイマイチで、自慢できる話しではないように思えます。どうですかネ。

日本は今では世界第二位の経済大国ではなくなり、中国に抜かれ、第三位。そのうち韓国にも追いつかれ、もしかすると第四位になるかも知れません。

中国人の労働意欲の高さ、学識レベルの高さ、多国籍企業の受け入れ方などが優れていることから、『チャイナ・アズ・ナンバーワン』(China as No.1)なる本の執筆中なのでは…。韓国訪問時、大統領から執筆要請(Korea as No.2)があったのでは…。などなど、いずれも冗談ですが、要は、それほど日本の世界的な位置づけが変化しているわけです。

前記した本の中で<日本が世界一に成るための条件>として第一に挙げたのがリーダーシップ。つまり、官僚機構を掌握できる強力なリーダーシップを持った政治家が今後の行政のイニチシャチブを握るべきたと記しています。30年前も今も切実な課題がリーダーシップです。ハイ。博士は3年前に退官したそうです。

2010年8月21日土曜日

巧妙にお客を引き込む怖い話し

妙なことから若手のドキュメント作家とお酒を飲む機会がありました。彼は新手のMLM(マルチ商法)であるネットワークビジネスを研究しているとか。別世界の話しですが興味深く拝聴しました。

例えば、法律の網の目を潜る巧妙な手口や複雑怪奇な報酬の再分配の仕方など。いずれも、ぎりぎりセーフで合法的だと言うのですから不思議です。しかし、その光と陰の狭間で人生が狂い、転落する人々の哀れな姿。それは今も昔も変わりはないとのこと。『甘し汁には毒がある』ことを重々知りつつ深みにはまる人間の性。それにつけこむ悪な人々。彼らの餌食になる"お客"はあんがい高学歴で知的で堅実な女性が多いのだそうです。健康と美容がキーワード。それもお子さんが小学生の主婦とフリーのフィットネスインストラクターが二大ターゲットとのこと。悪な男たちは深い闇の中に隠れ、常に表面も出てくるのは女たち。それも"お客"と同世代の美人でゴージャスなビジネスレディー。それが今のトレンドなのだそうです。主婦はPTAやサークル活動を通じて横のつながりがあり、次の"お客"への連鎖が容易だから。一方、フリーのインストラクターはメンバーさんとの縦のつながりがある。それがターゲットにされる理由なのだそうです。 彼らは勉強会やセミナーと称するサクセス・ストーリーを披露するビジネスミーティングが大好きらしい。勉強会やセミナーへお誘いがあったら要注意とのこと。

"お客"になっている知人がいたら早めに忠告・助言を…。深入りしてからでは遅い。怖い話しです。

2010年8月13日金曜日

終戦日が近づくと思い出すあの人の顔・姿・涙

1945年8月14日、日本がポツダム宣言を無条件で受け入れ、太平洋戦争が終った日です。昭和天皇の有名な玉音放送は翌日(8月15日)。翌々年の正月に私は生まれました。父47歳、母42歳。よく生んだものです。これも終戦があったればこそ。終戦に感謝。

さて、1970年前半、私はフィリピンで3年間暮らしました。フィリピン各地にまだ戦争の傷跡が生々しく残っている頃です。日本政府もレイテ島を中心に度々遺骨収集団を組織的に送り出していました。それとは別に私的な立場で戦友の死を弔いに訪れる人々も結構多くいました。当時、現地語が話せる日本人が少なかったこともあり、時折、バイドの話しが来ました。そんな一つ、病院のお盆休みを利用して訪れた高知県のお医者さんがいました。ボラカイ島へご一緒しました。戦時中は縦横無尽に塹壕があったという小高い丘があり、その中にあった野戦病院に負傷兵を置き去りに…。その時の自戒の念と無念さ、20数年間、いつも悩まされていたとのこと。塹壕入り口はなかなか見付りません。当然ですが、深いジャングルが延々と続き、当時の地形とは異なっていました。集落の長老たちの尽力もあって、やっとそれらしき場所(置き去り)を発見。2日間の収集作業。事情を知った現地のヒトたち率先して手伝ってくれました。10名ぐらいはいたはずだと言うのですが、4名分の遺骨しか収集できませんでした。そのお医者さんは顔をグシャグシャにしてボロボロ泣きました。「すまなかった・・・許してくれ・・・」を連発。観ている私も涙・涙・涙でした。

もう一つ、同じお盆休みにフィリピンを訪れた宮城県の小学校の先生(女)。場所はルソン島中部のラオニオンの海岸です。生き残って帰れた戦友から手渡された一通の手紙。その色あせた紙片を握りしめ、泣き崩れました。当然ながら遺骨なし。海岸の砂を持ち帰りました。新婚早々、終戦間近くに召集されたそうです。その後、長女を出産。その娘さんが「お母さん。お父さんの最後の地で思いっきり泣いてくればイイよ」と肩を押してくれたのだそうです。涙・涙・涙でした。

終戦記念日がくるとあの人のあの時の顔や姿や涙を思い出します。あれから30数年、その後、あの人たちはどんな思いで暮らしているのでしょうか。

2010年7月29日木曜日

ルバング島でのチョット気になる話し



久しぶりに旧友と会い、酒を酌み交わしました。彼は大手新聞社の海外支局が長く、最後は東京本社の管理職で退職。現役時代は東南アジアの専門家として何か政変があると人気TVニューズ番組に度々出演。著書も多い。これからどうする…と彼に訊くと「それが問題でネ」とのこと。彼であっても退職後もジャーナリストとして仕事してゆくのが難しいらしい。

酔うにつれ、若き日々を共に過ごしたフィリピンでの話しに華が咲きました。特にルバング島で過ごした数日は思い出深い。当時、私は水泳コーチとして、彼は博士課程の大学院生として、共に国立フィリピン大学の構内に住んでいました。日本人が少ない頃ですから何かと助け合いながら過ごしました。ある時、彼の日本大使館の知人から、高額なバイトの話しが舞い込んできました。ルバング島に生存(?)しているかも知れない旧日本軍兵士を捜索する本調査がある。その予備調査を兼ねた現地視察があり、それに通訳兼雑用係として雇われたのです。その年は年明け早々、グアム島で横井庄一さんがジャングルの中から生還。その数ヶ月後、確かにルバング島のジャングルの中で日本兵と遭遇したフィリピン兵との間で銃撃戦があり、そのヒト(小塚某)は死亡。また、マニラ市内でも日本人の商社マンがゴルフ場前で機関銃で殺害されるなど何かと物騒の多い年でした。

バイト料の魅力もさることながら"日本兵"(?)への興味があり、若い二人はイソイソと出向きました。猛暑の中での現地調査は大変。そして、収集できた情報の質の悪さにウンザリ。イイ加減な二次か三次情報ばかりでした。しかし、嬉しかったことは日本食です。調査員が日本から持参した様々な加工食品です。特に赤飯他の缶詰類とうどんやそばなどのインスタント食品類に感動しました。結局、現地での印象は、昔は居たかもしれないが戦死した小塚さんがラストソルジャーに違いない。「もう居ない」と誰もがそう思いました。その後、日本政府による本格的な捜査が行われたのですが、結果は同じだったようです。残念ながら、その時はお声が掛かりませんでした。そんな事すらスッカリ忘れていたある日、ほぼ一年後のこと、何と小野田少尉がピョッコリ生還してきたのです。心底驚きました。あの時もどこかで観ていたのかと思ったら、正直、ゾーッと怖くなったのを覚えています。

生還する切っ掛けは独り丸腰の日本人青年(鈴木某)との接触でした。二人が出会った場所は、かつて銃撃戦で"戦死"したヒトの名をとって現地で は"Kozuka Hill"と言われていた小高い丘です。私もその丘へ登りました。その丘から観た写真です。眼下にルバング島の集落が転々と見える見晴らしのイイ場所です。あれから35年が経ちました。生還した日本兵はその後それぞれの人生を歩み、他界。そんな衝撃的な出来事があった事すら人々の記憶から消えようとしています。使命感を持ち続けた日本兵。その律儀さと忍耐強さ。日本人であることを誇りに思わずにはいられません。

旧友と酒を酌み交わす中で出た話しでチョット気になる事が一つ。当時、ルバング島で布教活動していたオランダ人老牧師の話しです。ジャングルの中で訊いた話しとして語ってくれたことは、日本兵は結婚しており子供もいる、というのです。生還後、小野田さんは一度もルバング島を訪れることはなく、早々にブラジルへ移住しました。彼の 心境はどうだったのか。老牧師の話しは事実だったのか否か。今となれば余計な事ですが、本当はどうだったのか、チョット気になります。

2010年7月27日火曜日

ピンピンコロリ(PPK)の条件は何か

男性79歳、女性86歳、男女平均83歳。四年連続世界一とのこと。三大死因、①がん、②心疾患、③脳血管疾患による死亡率が若干減少したことが記録更新へつながったとのこと。もし、がんでの死亡が克服されると3年。心疾患だと1年。更に長生きするらしい。「いつまで長生きできたか」で観ると日本は素晴らしい国です。が、「いつまで元気だったか」で観ると世界ランキングの順位はガックリ下がります。何故ならば、日本人はアメリカ人より5年も早く病気を患い、人生のトアイライトは寝たっきりが多い。PPK(ピンピンコロリ)で大霊界へ旅立つ日本人は7人中一人しかいません。

そして、日本は世界一の長寿国と思いきや、人口10万人当りの100歳人口はアメリカ人の方が多い。なんと日本人の2倍。もっとも圧倒的に白人が多く、それも経済的に豊かなお金持ちが多い。黒人は案外短命で67歳。地球人の平均寿命が68歳ですからアメリカ黒人は世界標準ということになります。オバマ大統領が目指すメディケア(高齢者医療保険制度)の対象年齢を65歳以上にしているのも納得。何となく裏がありそうですネ。日本も後期高齢者医療制度は75歳以上ですが、これもアメリカ流に考えればもう数年遅らせた方がイイのかも…。

アメリカ人の80歳以上を対象にした健康調査で最も好む運動のナンバーワンが散歩で次に水中歩行。プールで運動している高齢者が案外多い。元水泳コーチとしては嬉しい結果です。日本で同様の調査をすれば、プールは、多分、少ない。何せ10万人当たりのプールの施設数はアメリカの3分の1ですからネ。 もっとも80歳以上で運動している日本人は極めて稀です。

さて、世界一の福祉国家である北欧のノルウェーやスウェーデン。平均寿命は81歳。寝たきり老人は少ないようですが、老人の自殺者数も世界一。長生きすれば幸せだ、とは限らない。そんなところに人生の難しさがあるようですネ。

10年間、我が家の一員だった猫の一匹が今朝、永眠。数日前から覚悟はしていたのですが、イザとなるとショック。「命」の尊さを痛感。家族全員が落ち込んでいます。この悲しみは当分続きそうです。ましてや肉親の誰か「死」を向かえたら、どんなにショックか。そんなことになれば、本人の意思がどうであれ、家族としてはワラをも掴む想いで「延命治療」に頼るに違いありません。身近な「命」とはそういうモノなのでしょう。

2010年7月20日火曜日

北海道?九州?それともヤッパリ本州ですか?!

もし月収40万円のサラリーマンが毎月80万円のゴージャスな暮らしをしていたら・・・。勿論、生活費の半分は借金です。何と借金残高は収入の5倍強。年々借金は膨らむ一方です。今でも元金据え置きで利子返済だけでも毎月14万円。破局的ですネ。このサラリーマンは間違いなく自己破産への道を歩んでいます。でも、ご本人は案外平気な顔です。「オレなら大丈夫だヨ」とうそぶいています。その理由を聞いてビックリ。何故ならば、彼の殆どの借金は実家からのモノで巷の金融ローンからはわずかしか借りてないからだと言うのです。もしかしたら、実家からの借金ですから、始めから踏み倒すつもりなのかも知れません。

このヒトとは勿論「日本政府」のことです。実家とは「日本国民」のことです。知らず知らずのうちに一所帯当り1580万円の借金がある。これが今の日本の財政危機の実態です。国債残高は850兆円とか。この分だと早ければ3年後には1000兆円の大台へ。定年まじかな政府高官は1400兆円までは大丈夫と楽観的なことを言っているようですが、その言い分はとても信用するわけにはいきません。とにかく大台に乗れば国家破産へのカウントダウンが始まります。先進諸国の中で日本は国債残高が群を抜いて多い。GNP比率で150%なのですからネ。だからIMF(国際通貨基金)も、見るに観かげ、心配し始めました。

さあ、どうするべきか。早ければ3年後から消費税10%にアップしたいのが政府の本音。でも、その殆どは社会福祉には回らず、借金返済へ回るとみるべきでしょう。財政専門家は、社会福祉を充実させるには25%は覚悟しなければならない、とのこと。何ということでしょう。

ありえない話しですが、もし国づくりのモデルとして、スエーデンのような高負担・高福祉の大きな政府を望むヒトは北海道へ。逆にアメリカのような低負担・低福祉の小さな政府を望むヒトは九州へ。どっちもイヤだ。このまま中途半端な国でイイや…というヒトは本州へ。それぞれ望む国へ移動したら、どのような人口分布になるのでしょうか。多分、大半のヒトは本州を望むのかも知れません。そして、本州はヒトの重さでズルズルと沈み、国が滅んでゆくのでは…と思います。北海道、九州、それとも本州。貴方ならどこへ移り住みますか。

次の世代が夢と希望が持てる国。日本人で良かったと思える国であって欲しい。どのような国づくりを目指すべきか。悩んでみても仕様がないのですが、でも、私は悩んでいます。

2010年7月11日日曜日

ガラパゴス人が選ぶ明日の国づくり

あと数時間で参議院選の開票結果が出ます。ほぼ一年前、日本もいよいよ二大政党へ向かうのかという「政権交代」とやらが起きました。が、しかし、メインプレーヤーのレース放棄、陰のリーダーが雲隠れ、などで数ヶ月で挫折。またか…ウンザリする政党リーダーの交代劇。この20年で16回目の交代です。こんな見っとも無いレースをこれからも続行するのか。別のルールでレースをやり直すのか。日本人は自分の国の形をどうしたいのか。今日は日本の明日を選ぶ一つの区切りです。

なぜ衆議院と参議院があるのか。二院制は無駄なように見えるが、衆議院で可決したことを参議院で再検討。念入りに間違いのない法治国家を創るために必要なのだ、と遠い昔に教えられえた覚えがあります。だから参議院の国会議員は特に良識のあるヒトでなければならないのだ…と。しかし、今日、投票所へ行って見ると、比例区は個人名、全国区は個人名でも政党名でもいずれでもOKなのだそうです。なんか変だナと思いました。二院制の良さはいつの間にか失われ、参議院は第二衆議院化されていました。事実上、一院制です。ですから良識のヒトかどうかより、まずは有名なヒトか否か。名簿の中は知名人オンパレード。こんな古ぼけた選挙システムで言い分けない。でも一人ひとりが「どうでもいいヤ」「なんとかなるサ」「ダメならダメで誰か考えればイイ」と何となく思っている。それが怖い。

この日本人の能天気さ。不思議なことに日本国内に居るとコノ「変てこさ」が分からない。だから変が当たり前になっている。コレが怖い。今夜、どんな開票結果になるのか。民意が選ぶ国の方向なのですから、結果がどうであれ、止むを得ない。チョッと楽しみでもあり、怖い感じがします。

2010年7月4日日曜日

当面はプランクトンの力で海水を浄化する?



昨日、フロリダから戻ってきました。

今月から日本政府は中国人観光ビザの発給枠を大幅に緩和。これまでの富裕層から中間層の人々も受け入れるとか。発給枠10倍アップ。それが背景にあるのでしょう。成田空港は小学生の修学旅行客で混雑していました。中国から子供たちが日本へ来る。そんな時代なのですネ。

メキシコ湾の原油流失のことでフロリダで知人から聞いた話しです。英国BP社の無策ぶりにイライラしている米国政府。独自の解決策の一つが、何と、プランクトンの力を借りるプランなのだそうです。つまり、原油をプランクトンに食べてもらうことで海水を浄化することを検討中とか。もともと石油は天然モノですから、ヒトが造った化学薬品で中和させるより、遥かに地球環境に優しい。なるほどネ。いずれにしても気の長い話しです。

地球が生まれて46億年。生物は36億年。海は生命の源なのですから、海の回復力に期待しまlしょう。

2010年6月22日火曜日

フロリダの海が泣いてる



来週から米国フロリダへ出張です。それもメキシコ湾岸のサニベルと言うところ。フォートメイヤと言う有名な避暑地の近くです。海カメの産卵地でもあり、朝夕、イルカが泳ぐ綺麗な海岸です。日中、運がよければマナティーを観ることもできます。が、メキシコ湾岸は史上最悪の原油流失事故で世界中が騒いでいます。海水が変質しているかも知れません。サニベルは事故現場からかなり離れており、フロリダ半島への原油流失の南下はまだ起こっていないらしい。とは言え、英国BP社(ブリティシュ・ペトロリアム)の言い分の10倍以上が流失しているうようですから、海カメもイルカもマナティーを近寄らなくなる恐れがあります。なにせ4月から今までの間に原油が流れ出た量は少なく見積もってもエンパイヤステートビルの容積の半分以上だと言うのですからネ。

BPは既に事故現場を修復することは不可能だと思っているのでは・・・。湾岸漁業の救済もハナからその気はないのでは・・・。そして、莫大な資産を何とか合法的に他社へ移し、BPは倒産への準備を始めているのでは・・・などなど噂が多い。つい数日前、BP会長スパンべり氏が美女(?)をはべらせカリブ海でヨット遊びをしている様子が米国新聞社によってスッパ抜き報道されました。ヤッパリ・・・と米国人の怒りは高まる一方です。過日、ホワイトハウスに呼び出されたその老人の苦渋な顔つきとヨット上でのニヤけた顔つき。とても同一人物とは思えません。大金持ちのやる事、考え方や感じ方など、所詮、私たち下々の者には到底理解できません。

ところで、つい先日、逮捕された商工ローン業界に君臨したドン的存在のSFCG(旧商工ファンド)会長。BP会長に比べれば、恐竜と昆虫ほどのスケールの違いがあるようですが、カリスマ経営者として世間から高く評価されていた点では共通しています。世間の評判とやらも案外当てになりませんね。

2010年6月19日土曜日

聖地ギザロ峠の掟




自転車に興味ない人はどうでもイイことですが、イタリアとフランスは世界の二大王国。中でもイタリアは、サッカーだけでなく、自転車の世界でも群を抜いています。天才的なロードレーサーを次々に輩出しているだけでなく、高い技術力を誇る小規模なメーカーが多い。

イタリアの伝説的な人物にレアルコ・ギエラ(Learco Guerra)というヒトがいます。絶頂期だった1930~1934年までの5年間、メジャータイトルを独り占め。長い現役時代を通じて負けたのは数回しかない。1963年、61歳の若さで没しました。彼の生涯は波乱万障。男らしく生きた不屈の精神の象徴とされ、尊敬すべき人物として今でもランクインするほとです。例えば、イタリア選手権(Giro d' Italia)やフランス選手権(the Tour de France)の優勝者だけが着れる栄光のジャージがなぜピンク(イタリヤ)やイエロー(フランス)なのかというと、ギエラが初優勝時に着ていたジャージの色がたまたまソレだったから…。それくらい後世に影響を及ぼした人物なのです。

ギエラへの敬意と彼の思想を次の世代へ伝えようと多くの自転車好きの人々がコツコツと30年間、建設資金への募金を集め、ついに2000年に完成したのが自転車博物館(Cycling Museums in Italy)です。世界唯一。それも彼が現役時に修練の場とした"聖地"に立てられました。この地がミラノ郊外にあるギザロ峠です。自転車好きなら一度はチャレンジしなければならないとされる急勾配の細くて長い峠道です。2007年11月、聖地ギザロを訪れました。私の場合、恐れ多く、その資格も体力も気力もなく、知人の車に乗ってのギザロ詣でした。

峠には小さな教会があり、歴代チャンピョンたちの超高級な愛用車がズラリ献納されています。が、展示を外されたモノも数車あり、「不名誉につき」とその理由が短めに記されていました。また、教会の脇にある博物館の入り口にはギエラの愛用車が展示されています。案外、粗末なモノで大小無数のキズがあり、ハンダ付けした跡すらあります。名誉と不名誉の境はわずかですが天と地ほどの違いがあるように感じました。

国技とされる日本の相撲。外人横綱を「品格がない」と退陣へと追い込んだのはつい先日のことです。それが現役三役を含み、親方までもが、暗黒街の資金源になるであろう賭博行為に関与していたとは…。その現状認識の甘さにはアキれるばかりです。さしずめイタリアならマフィアに関与したことは厳しく処罰されるようですから「不名誉につき」の札付きでギサロ峠から外されることでしょう。日本の場合はどうか。国技は別格扱いされ、穏便な処置とやらで済まされるかも知れません。少なくとも国民の税金で建設された両国国技館です。関取に限らず、不名誉なヒトたちが大手を振って出入りしてもらっては困ります。

2010年6月15日火曜日

世界一の笛の音で南アW杯が始まる


ゴルフもサッカーも一度もしたことはありません。したいと思ったことすらありまりません。が、何故か、マスターズやワールドカップには興味があり、できるかぎりTV観戦をします。世界最高のゲームには背景や周囲に様々なドラマがあり、それが魅力なのかナと思っています。南アでのW杯、予想に反し(?)カメルーン戦での日本チームの大健闘。当分、夜更しが続きそうです。


2006年9月、ブラジルへ。知人の住むボルト・アレグレ(南部の大都会)を訪れました。この地は寒く、何と冬季にはコートが必要で、数年に一度は小雪がチラつくという場所です。知人は、ご多分に漏れず、大のサッカーファン。地元クラブ(インテルナシオナル)の親子三代での株主とか。気のない私をムリやりクラブハウスへ連れて行き、長身の選手とツーショット。その一枚です。そのチームは、同年12月、横浜で開催された2006年度トヨタ杯(FIFAクラブワールド選手権)で優勝。そして、その選手はチーム主将、フェルナンドンという超有名なストライカーだと後日知りました。


そのブラジルの知人が来日。東京の外人向け観光スポットの定番、浅草界隈へ連れて行った時のことです。彼はぜひ「世界一の笛」を買いたいと言い出します。そう言われてもチンプンカンプン、事情が飲み込めず、いろいろ探し回りますが、浅草に世界一の笛など売っていません。不満そうな彼は、日本製のフツウの笛を数個購入。帰国の途につきました。


後日、彼が言う通り、その世界一の笛は東京下町(葛飾区)にあることを知りました。それは"Noda's Whistle"と言われる、知る人ぞ知る、極上品。町工場的な小さな会社(野田鶴声社)の自慢の製品であること。卓越した職人が造る手作り品であるとこ。世界中のサッカー国際A級審判員の愛用品であること。そして、今回の南アでのW杯でもその笛は公式採用されており、そのホイッスルの音でゲームが始まり、その音でゲームが終る。世界一の笛で世界最高のゲームが取り仕切られているわけです。

2010年6月8日火曜日

今やフードもエコカルチャー



イタリアも決して景気がイイわけではないのですが、環境・文化・健康を横断的にカバーするコンセプトでのフード(食物)とエクササイズ(運動)はどこも繁盛しており面白い。

今回、出会ったのはニンジンやカボシャなど野菜で作ったジェラード。これが美味い。もう一つはライスとフルーツの和え物。リンゴやナシ(?)など果物との混ぜご飯スープ。酢味があり冷たい。これも触感が新鮮で実に美味しい。

こんなチョット変わったヘルシー(?)なモノを食べさせてくれるレストランがミラノから汽車で1時間ほどのド田舎にありました。仮オープンなのだそうですが結構賑わっていました。昼間のみ営業。完全予約制とか。

2010年6月5日土曜日

理想と現実の狭間で考えるべき大切なこと




「食はトスカナに在り」とか、イタリア料理の本場、中部トスカナ地方へ行ってきました。古都グレセトから車で1時間ほと山岳地へ入った処にある避暑地モントベリイに滞在しました。周囲はオリーブとブドウ、そして有機農園が延々と続くド田舎です。丘の上に大きな樫の木が一本。その根元に小さなプレートが一枚。意味深長な言葉が記されていました。

We Will Never Understand Why !

どう訳せばいいのでしょうか。決して諦めない…と言う強い意志が伝わってくる重い言葉です。私は「必ず夢を実現する」と解しました。滞在先のオーナーによれば、その地へ移り住み、原野を開拓・開墾。何度も困難にあった。理想(ユメ)か現実(カネ)かの狭間で悩み、気持ちが揺れ動く。いっそ、土地も事業も手放し、都会へ移り住む方が楽だ。そんな時、丘の上の樫の木の下で考える。自分にとって人生の目的は何か。何が大切なのか。自分の気持ちと向き合う。そして、何とかここまで来れた。目標を見失わずそこそこ事業も成功できた。これからも何度も悩み、苦しみ、困難と出会うだろうが、この言葉と向き合ってゆく。そう力強く語ってくれました。

あえて難しい道を選ぶより、楽な道を選ぶ。困難と向き合って努力するよりも、さっさとその場から逃げ去る。そんな楽な生き方の方がイイ。上はいい歳の政治家から下は年若い学生まで、楽な生き方を選ぶ日本人が多い。グチを言わず、自分の生き方を理屈で合理化せず、困難と向き合う。現実に流されず、理想を捨てず、強い意思を持って生きる。そんな生き方をしたいものです。

2010年5月21日金曜日

ヒトの祖先はどこから来たのでしょうか



4月下旬、オーランド(米国フロリダ)にいました。4月19日早朝、曇り空をジッ~ッと見上げていました。が、何も聴こえません。実は、スペースシャトルが大気圏内に突入する時、雷が落ちるような音が二度ドンドンと聴こえるらしい。そこで、意気揚々、上を見上げていたのです。しかし、その日は天候が思わしくなく、突入は翌日(4月20日)へ延期。ラストランとなったそのスペースシャトルで地球に戻ってきたのが山崎直子さん。日本人初の女性宇宙飛行士です。

メディアに出っ放し。彼女はまさに"時の人"です。地球に戻って一番感じたことはナニ…との質問に「"重力"ですネ」と「頭に漬物石が乗ったような感じでした」とのこと。では逆に、宇宙で一番感じたことは…との問いに「上下左右の区別が全くない"無重力"の面白さですネ」とのこと。そして、ヒトの生命の根源を感じたと言っていました。

ヒトは60兆余の細胞から成り、その生命の誕生は謎に包まれています。分かっていることは30億年のDNAの歩みをヒトはどこかで記憶していることです。ヒトはサルから進化した。それホントだろうか。ヒトは水棲哺乳類の一種として進化したのではないか・・・と言った見方があります。宇宙へ行くとそれがハッキリ分かるのかも知れません。宇宙に行かなくても、例えば、地上の中の最も身近な宇宙とも言える「水」へ入ると少しそれが分かるような気がします。何故ならば、重力から解放されると心も体もホット一休み。不思議な感覚が蘇ってくるからです。

2010年5月19日水曜日

ピューリッツァー賞の写真現場に立って


報道写真の頂点、ピューリッツァー賞の写真はどれも強烈で衝撃的です。その一枚、1973年、賞に輝いた写真。ベトナム戦争です。修羅場を背景に幼い少女が裸で逃げ惑う。ナパーム弾で大火傷した少女。世界中がベトナム戦争反対へと一気に動き出す超有名な一枚です。

この写真には後日談があります。その時、カメラマンは写真を撮った後、重症の少女を病院へ搬送。少女(当時9歳)は一命を取りとめ、14ヶ月の入院中17回の手術を受けた。その後、身寄りのない少女はカナダへ。養父母のもとで大学進学。結婚。二児の母親となり、国連・ユネスコの親善大使へ。反戦主義のシンポル的な存在として活躍した。

そのカメラマンは38年ぶりに"少女"(今は47歳)と再会した記事が新聞に載っていました。

ベトナム戦争が終って30年目、2005年2月、知人のアメリカ人(ベトナム戦争に参戦した兵士たち)と一緒に持参した自転車でイントシナ半島を縦断する旅をしました。2週間で1200キロを走破。大変でしたが生涯思い出に残る貴重な体験でした。目的地ホーチミンシティー(旧サイゴン)に近づいたある日、例のピューリッツァー賞の撮影現場に立ち寄りました。その場所からその方向を観た写真です。のどかな田園風景が広がり、30年前、そこが修羅場だったとはまったく感じられませんでした。写真の少女の手前にいる少年の縁者が経営するレストランがあり、そこで昼食を取ったのですが、大きく引き伸ばされた例の写真が壁に掛けられていました。

その数日前、ソンミン村虐殺事件の現場となった場所にも立ち寄りました。今は村全体が国立戦争博物館となっており、あの日のままの状態で保存されていました。元米兵の知人たちは目を潤ませ、案内役(元ベトコン兵)の説明を熱心に聞いていました。帰りの道程、いつも陽気な彼らは誰も一言も話さず、ただ黙々とベダルを踏んでいました。