2012年3月12日月曜日

「外」から観る日本人と「内」から観る日本人


昨年9月、インド訪問の時、お世話になったフランス人から長文のメールがありました。震災後1年目の日、死亡した人々へ思いをはせ、被災した人々の事を思い、祈りを捧げた。「日本人なら必ず立ち上げれる」といった励ましの内容でした。

彼は現在、国際的なスパサービス運営会社(本社パリ)のインド支店マネージャー。旧フランス領の街ポンディシェリー郊外にあるスパホテルに勤務。若い頃はさぞイケメンだったであろう。どこかで観かけたことのある顔。その筈です。20代頃は映画俳優。数回訪日したこともあるとか。六本木や麻布に詳しい。そして、彼は"日本通"。何と"The Dignity of the Nation"(国家の品格)も読んでいる。この本は日本人が書いた辛口の日本論としてベストセラーになった。著者は有名な数学者、お茶の水女子大の藤原正彦(元ケンブリッジ大教授)。日本で出版される前に英語本が出版されことでも話題なった。フランス語の翻訳本もあるとのこと。

彼はその本から引用。日本人の精神文化のコアは『卑怯の伝授』(Teaching Baseness)だと強調。つまり、日本人が最も嫌いなことは「卑怯な行為」であり、最も恥ずかしいことは「卑怯者になる」こと。このことを親から子へと継承する精神文化がある。だから、今回の東日本大災害で被災者への深い思いやり、情け深い行い、助け合う心遣いがあった。これは<卑怯の伝授>が根っこにあったからだと彼は思っているようです。そうかも知れないが、そうでないかも…。彼のメールを読みながら、私は「申し訳ない」気持ちで一杯になりました。

何故ならば、この一年、私は彼とは違う日本人観を抱くようになったからです。とりわけ「あの人はリーダーだ」と思われるヒトに卑怯者が多い。平気で白々いいウソを言う。自分の言葉や行動に責任を取らない。恥ずかしくないのか…と聞いてみない。そんなヒトに限って、この1年、好んで口にしたのが『絆』です。この響きが次第に汚染化されゆくのを感じたのは私一人ではない筈です。今となればウソっぽい言葉の代名詞です。


例えば、2千253万トンある被災地の瓦礫。この1年でたった6%しか処理されていない。例えば、震災原発直後に立ち上げた6つの対策本部。一国の大臣6名が連日連夜、膝詰めで話した会議録がたったの70余ページ。誰が何を言い、誰が何を決めたのか、サッパリ解らない。これが「絆」の結果です。

偉いヒトほど変。この一年、偉くない普通のヒトも「チョット変だナ」と思うことがことが多い。身勝手で無責任な大人たち。彼らが多数派になった時、どんな国になるのか。それが怖い。今からでも遅くはない。少なくとも子孫たちには「日本人なら卑怯者になるな」と言い続けましょう。

1 件のコメント:

  1. 匿名16:50:00

    天邪鬼との批判覚悟で私見を述べますが、「執拗に強調される事項は、実は実態との正反対」と、私は常々考えております。ことさら「私という人間は何々だ。」とか「このような場合は、何々しなければならない。」等々の断定的かつ強制的な言動の裏にあるものは、得てして間逆の内面・実態から発露する「反動形成」なのではないかと。そして、このパターンが実にあまねく広く、個人や家庭、ひいては社会全体に蔓延しているのが日本ではないかと。従いまして、私、古来の「武士道」なるもの、全く信用しておりません。所詮さかのぼれば野党の用心棒集団。「求道者的姿勢」も涙ぐましい自己肯定の欲求が経典化したものとしか思えません。

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