2014年8月4日月曜日

昭和の15年 70年後の今も足かせ 軍国主義


今年もあの日が来ますネ。1945年8月6日、午前8時15分。

広島へ原爆投下。2日後、長崎へ。2個で計20万人死亡。これがフィニッシュとすればスタートは満州事変。1930年9月、関東軍が柳条湖で鉄道爆破。その後、15年間で日本人、軍人600万人、民間人100万人が死んだ。

総帥権を傘に日本を“私物化”した陸軍参謀本部のエリートたち。極東裁判も難なく潜り抜け、戦後、無言。高額な恩給でヌクヌクと生きた。ずる賢い“妖怪”たち。

上の写真、広島直後、この少年は肉親の“葬儀”を独り見送っている。背中の弟は既に死しでいるらしい。このヒト、その後、どうなったのでしょうか。生きていれば80歳代のはず。どんな人生を歩んだのか。目頭が熱くなる一枚です。

下の写真、ご存じ司馬遼太郎。『竜馬がゆく』2125万部。『坂の上の雲』1475万部。戦後を代表する歴史小説家です。没18年経った今も日本社会に様々な影響力を持っていることはご承知の通りです。

幕末の坂本竜馬、明治大正の秋山兄弟。歴史の陰に佇んでいたヒトにスポットライトを照らし、世に知らしめた。多分、司馬が小説化しなかったら、彼らは歴史の中に埋もれたその他大勢の一人に過ぎず、決して今に名を残すことはなかったでしょう。

40数年前、フィリピン時代。マニラ市内にあった日本大使館に隣接した附属図書館に『竜馬がゆく』全5巻がありました。リザールプールで朝練(水泳指導)、遅めの朝食。それから昼まで冷房がギンギンに効いた図書館の一室で読書。それが“日課”でした。全5巻を数回読破。大の竜馬フアンになりました。そして、月遅れで届く月刊誌『文藝春秋』。司馬遼太郎の連載対談記事が楽しみでした。青春の思い出です。

さて、司馬は、長い日本史の中でも特に異様で奇妙な15年(ファシズム)。つまり、満州事件から終戦までの“昭和”を題材に次なるミリオンセラーを書こうと挑みた。この時期の権力機構の中枢だっ
た陸軍参謀の中に「次なる日本を考えた」日本人を探し求めた。厖大な軍事資料に目を通し、生存者を訪ね、10数年、東奔西走した。が、断念。小説に書きたい魅力的な人物は誰一人見つけられなかった…と後日『この国のかたち』の中で語っています。

ファシズムへと日本が疾走した道筋。資本主義が行き詰まり金融恐慌。政治家の弱さを金で動かした財閥。不景気の中であえいだ民衆。そんな不甲斐ない国家に不満を抱いた軍部。青年将校たちの背中を押した上層部。五・一五へ。二・二六へ。やがて国家総動員法が成立し、大政翼賛会で政治家全員を“封印”。思惑通り、軍人が管理運営する国家が実現した。その傲慢で強固な軍国主義が今に至る中国と韓国の反日感情の根底になっています。

なぜそんな道を歩むことになったのか。満州を植民地化することで欧米列強と肩を並べようとした軍部が悪かったのか。党利党略、私利私欲に毒された卑しい政治が悪かったのか。軍部の躍進に胸を躍らせた民衆が悪かったのか。たった15年の「昭和」の歴史が未だに日本の足かせになっているワケです。

大日本帝国陸軍参謀本部の中に屯していたエリートたちは知識人の仮面を被った“妖怪”だった。頭脳明晰だが、教養も哲学もない。小説化に耐え得る魅力的なヒトはいなかった。今も彼ら“妖怪”のDNAを受け継いだエリートたちが街を闊歩しているかもしれません。霞が関・永田町・丸の内あたりにいそうですネ。ご注意を…。

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