2011年11月25日金曜日

TPPという名の黒船の来航


近頃、同窓会と称する"飲み会"が増えています。私は仙台のど真ん中で生まれ育ちました。戦後生まれの"団塊の世代"ですから同級生がやたら多い。中学校では1学年が10組。一組に60~70名はいたので総勢700名ぐらいだと思います。幹事の話だと在京者はそのうち約10%ぐらい。多くの同級生は今でも仙台在住とのこと。3・11で被災したヒトもいる。今回、在京メンバーの世話役が横浜在住者だったので、会場はビール発祥の地となった関内の地ビール・レストランでした。幼馴染と会い・語り・飲む。それから横浜旧市内をブラブラ散歩。山下公園からシーバスに乗り、横浜駅で解散しました。

ビールに限らず関内周辺にはパンやアイスクリームなど西洋食品の発祥の地が多い。その訳は西洋人が多く住んでいたから。今も地名として残る"関内"という言葉の由来は西洋人の居留地の内側だった処。その外側にあったはずの"関外"は地名としては残っていません。関内には幕末から明治に掛けての文明開化の記念碑がそこかしこにあります。例えば、日本画を完成させた岡倉天心の生誕の地に建つのが開港記念館。その近くには勝海舟の仮住まい跡。勝邸には用心棒として居候していた坂本竜馬も住んでいた。多分、二人が闊歩したであろう日本大通り沿いには日米和親条約締結の地があります。

ペリーが黒塗りの軍艦4隻で浦賀に来航。その2年後、象のハナのように「横」へ「浜」が延びていた小さな漁村で通商条約が結ばれた。200年続いた鎖国がついに終ったのです。それが横浜の始まり。アメリカ・イギリス・ロシア・オランダから一斉に西洋人が押し寄せ、貿易港として横浜は活気づいた。何と10年間で人口が10倍になったというのですからその勢いが解ります。対等のはずの通商条約は名ばかりで領事裁判権もなく、関税自主権もない。不平等で不利な条件ばかり。この条件を回復するのに長く辛い歳月を要した。何と50年もかかった。回復できた理由は、大国チャイナとロシアを相手に絶対絶命の戦いを挑み、日本が勝利したからです。

その時代とは環境や次元が異なるとは言え、同じ通商条約の枠組み問題でいま日米は揺れています。日本政府は幕末の頃ように"開国"か"鎖国"かで賛否両論。議論伯仲しています。例のTPP(Trans-Pacific Partnership)問題です。正式には「環太平洋戦略的経済連携協定」と言うのだそうです。訳の解らない用語です。要するにアジア人口40億人の経済の成長力と市場性をリードするのはどの国か。東シナ海のリーダーシップは誰が握るのか。アメリカか中国か。勿論、TPPを発案したアメリカの強い思惑が見え見えです。ハッキリ言って日本の立場は弱い。横浜開港時とあまり変わっていません。変わっているのは隣国(中国・韓国)の状況です。日清・日露の発火点となった韓国ですが、今は劇的な程にパワーアップしています。今の日本は韓国のリードで歩調を合わせ、アメリカに従う以外に「道」は残っていない。それが現実なのです。イニシャティブは日本ではなく韓国にある。無責任なリーダー交代が続いている間に逆転してしまった日韓関係の立場の違いをガラパゴス人はよく認識していないようです。

50年前、眩しかった少年たちは歳相応にシワが目立つ老け顔になっていました。元少年たちがビールを呑みながら話すのは趣味のゴルフや釣、そして自慢するのは孫のこと。いずれも私には縁のない話しでしたが、楽しい午後の一時でした。

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