久しぶりに旧友と会い、酒を酌み交わしました。彼は大手新聞社の海外支局が長く、最後は東京本社の管理職で退職。現役時代は東南アジアの専門家として何か政変があると人気TVニューズ番組に度々出演。著書も多い。これからどうする…と彼に訊くと「それが問題でネ」とのこと。彼であっても退職後もジャーナリストとして仕事してゆくのが難しいらしい。
酔うにつれ、若き日々を共に過ごしたフィリピンでの話しに華が咲きました。特にルバング島で過ごした数日は思い出深い。当時、私は水泳コーチとして、彼は博士課程の大学院生として、共に国立フィリピン大学の構内に住んでいました。日本人が少ない頃ですから何かと助け合いながら過ごしました。ある時、彼の日本大使館の知人から、高額なバイトの話しが舞い込んできました。ルバング島に生存(?)しているかも知れない旧日本軍兵士を捜索する本調査がある。その予備調査を兼ねた現地視察があり、それに通訳兼雑用係として雇われたのです。その年は年明け早々、グアム島で横井庄一さんがジャングルの中から生還。その数ヶ月後、確かにルバング島のジャングルの中で日本兵と遭遇したフィリピン兵との間で銃撃戦があり、そのヒト(小塚某)は死亡。また、マニラ市内でも日本人の商社マンがゴルフ場前で機関銃で殺害されるなど何かと物騒の多い年でした。
バイト料の魅力もさることながら"日本兵"(?)への興味があり、若い二人はイソイソと出向きました。猛暑の中での現地調査は大変。そして、収集できた情報の質の悪さにウンザリ。イイ加減な二次か三次情報ばかりでした。しかし、嬉しかったことは日本食です。調査員が日本から持参した様々な加工食品です。特に赤飯他の缶詰類とうどんやそばなどのインスタント食品類に感動しました。結局、現地での印象は、昔は居たかもしれないが戦死した小塚さんがラストソルジャーに違いない。「もう居ない」と誰もがそう思いました。その後、日本政府による本格的な捜査が行われたのですが、結果は同じだったようです。残念ながら、その時はお声が掛かりませんでした。そんな事すらスッカリ忘れていたある日、ほぼ一年後のこと、何と小野田少尉がピョッコリ生還してきたのです。心底驚きました。あの時もどこかで観ていたのかと思ったら、正直、ゾーッと怖くなったのを覚えています。
生還する切っ掛けは独り丸腰の日本人青年(鈴木某)との接触でした。二人が出会った場所は、かつて銃撃戦で"戦死"したヒトの名をとって現地で は"Kozuka Hill"と言われていた小高い丘です。私もその丘へ登りました。その丘から観た写真です。眼下にルバング島の集落が転々と見える見晴らしのイイ場所です。あれから35年が経ちました。生還した日本兵はその後それぞれの人生を歩み、他界。そんな衝撃的な出来事があった事すら人々の記憶から消えようとしています。使命感を持ち続けた日本兵。その律儀さと忍耐強さ。日本人であることを誇りに思わずにはいられません。
旧友と酒を酌み交わす中で出た話しでチョット気になる事が一つ。当時、ルバング島で布教活動していたオランダ人老牧師の話しです。ジャングルの中で訊いた話しとして語ってくれたことは、日本兵は結婚しており子供もいる、というのです。生還後、小野田さんは一度もルバング島を訪れることはなく、早々にブラジルへ移住しました。彼の 心境はどうだったのか。老牧師の話しは事実だったのか否か。今となれば余計な事ですが、本当はどうだったのか、チョット気になります。
本文を読んだ知人他からメールを頂戴。面白く読んだとのこと。
返信削除残留日本兵が現地で結婚。土着化した話しは決して珍しくありません。
徹底抗戦のみ日本陸軍は兵隊や民間人を現地に置き去りに。特に崩壊後の撤退が後手に回ったミンダナオ島やパラワン島は悲惨だったようです。末端の兵隊の中には土着化して生き延びたのではないでしょうか。
さて、小野田さんと接触した日本人青年(当時26歳)はその後も冒険家として生き、ピマラヤで雪男との遭遇にチャレンジ。遭難死(38歳)。小野田さんは30年間も過ごしたルバング島を一度も訪問しなかった。ですが、わざわざ彼の遭難地(ヒマラヤ)へ慰霊に訪れているとのこと。
チョット変だと思いませんか。
戦後30年が経過した1974年。最後の日本軍敗残兵、陸軍少尉小野田寛郎さんが帰国。羽田空港に降り立つ姿を中継したTV特番。視聴率45%強。殆どの日本人がテレビ画面に釘付けになったことになります。
返信削除ご本人が知る戦前の日本と高度成長を成し遂げた戦後の日本とのキャップ。30年の空白をどの受け止めたのか。心境は察するに余りあります。
2014年1月17日、心不全で他界。享年91才。ご冥福をお祈り申し上げます。合掌。