2010年8月13日金曜日

終戦日が近づくと思い出すあの人の顔・姿・涙

1945年8月14日、日本がポツダム宣言を無条件で受け入れ、太平洋戦争が終った日です。昭和天皇の有名な玉音放送は翌日(8月15日)。翌々年の正月に私は生まれました。父47歳、母42歳。よく生んだものです。これも終戦があったればこそ。終戦に感謝。

さて、1970年前半、私はフィリピンで3年間暮らしました。フィリピン各地にまだ戦争の傷跡が生々しく残っている頃です。日本政府もレイテ島を中心に度々遺骨収集団を組織的に送り出していました。それとは別に私的な立場で戦友の死を弔いに訪れる人々も結構多くいました。当時、現地語が話せる日本人が少なかったこともあり、時折、バイドの話しが来ました。そんな一つ、病院のお盆休みを利用して訪れた高知県のお医者さんがいました。ボラカイ島へご一緒しました。戦時中は縦横無尽に塹壕があったという小高い丘があり、その中にあった野戦病院に負傷兵を置き去りに…。その時の自戒の念と無念さ、20数年間、いつも悩まされていたとのこと。塹壕入り口はなかなか見付りません。当然ですが、深いジャングルが延々と続き、当時の地形とは異なっていました。集落の長老たちの尽力もあって、やっとそれらしき場所(置き去り)を発見。2日間の収集作業。事情を知った現地のヒトたち率先して手伝ってくれました。10名ぐらいはいたはずだと言うのですが、4名分の遺骨しか収集できませんでした。そのお医者さんは顔をグシャグシャにしてボロボロ泣きました。「すまなかった・・・許してくれ・・・」を連発。観ている私も涙・涙・涙でした。

もう一つ、同じお盆休みにフィリピンを訪れた宮城県の小学校の先生(女)。場所はルソン島中部のラオニオンの海岸です。生き残って帰れた戦友から手渡された一通の手紙。その色あせた紙片を握りしめ、泣き崩れました。当然ながら遺骨なし。海岸の砂を持ち帰りました。新婚早々、終戦間近くに召集されたそうです。その後、長女を出産。その娘さんが「お母さん。お父さんの最後の地で思いっきり泣いてくればイイよ」と肩を押してくれたのだそうです。涙・涙・涙でした。

終戦記念日がくるとあの人のあの時の顔や姿や涙を思い出します。あれから30数年、その後、あの人たちはどんな思いで暮らしているのでしょうか。

1 件のコメント:

  1. この記事を読んだ知人からデンワ。当時、宮城県の小学校の先生だった方は7年前にお亡くなりなったとのこと。退職後は民生委員などして地域に貢献。あの時、肩を押してくれた一人娘は広島へ嫁いているとのこと。ですから、高知県のお医者さんはもっと前に他界しているに違いありません。合掌

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