2010年8月27日金曜日

米国のソメイヨシノと日本のハナミズキの違い


米国の首都ワシントンDCのホトマック河畔(タイダルベイスン)には数千本の桜(ソメイヨシノ)が延々と続く並木道があります。世界的にみても屈指の桜の名所だと言われます。もとはと言えば、1912年3月27日、東京とワシントンDCとが姉妹都市になった際、東京からソメイヨシノの苗木3千本が贈られたことに端を発します。その返礼として、ワシントンDCから、北米原産のハナミズキの苗木3千本が東京に贈られました。その後、ワシントンDCのソメイヨシノは大切に育てられ、二世三世へと数万本に株分けされ、今日に至っているそうです。

毎年、満開時に全米桜祭(National Cherry Blossom Festival)と称する記念式典が開催されてます。10年毎に大きな式典があり、2002年は90年目にあたる年でした。私が招かれたイベントは座間キャップ他で駐在経験のある高級軍人のご婦人方の「東京婦人交流協会」という団体があり、そこが主催したイベントでした。その休暇日にスミソニアン博物館へ行ったわけです。

ちなみに、東京に贈られたハナミズキは日米開戦と同時に軍の命令で一本残らず切り倒されました。現在、東京の街路地に白や淡いピンクの花を咲かせているのは、戦後、再び米国から贈られたモノとのこと。戦時中も大切に育てられた米国のソメイヨシノ、一本残らず切り倒された日本のハナミズキ、日米間の余裕の違いを感じますね。

2010年8月26日木曜日

You Can Do it!



我が家に滞在中の客人。スイス人親子。スイス人といってもフランス語やドイツ語ではなくイタリヤ語圏の方。四ヶ国語が話せるというのですから羨ましい限りです。父親は世界的に有名な水中リラクゼーションのリーダー。息子は18歳。工科大で航空工学を学ぶ学生。卒業したら空軍へ。そして、将来の夢は「宇宙飛行士」になること。その理由を聞いてギック(!)。子供の頃、父親に連れられ米国へ。首都ワシントンDCを訪れた時、スミソニアン博物館での衝撃が「夢」の発火点になったとのこと。同博物館で宇宙工学に関する数々の展示を観たことが強く影響しているのだそうです。昨今の日本の若者が失いつつある若者独特の「夢」への拘りと熱い想いを感じました。

彼ほどではないにしろ私もスミソニアン博物館には思い出があります。2002年4月、全米桜祭(National Cherry Blossom Festival)のイベントの一環でワシントンDCを訪問。その際に6つある同博物館の中でも特に人気のある宇宙博物館をジックリ観ました。広い玄関ロビーの両側に展示してあったのがアポロ11号と同13号。11号は、ご存知の通り、1969年7月20日、人類初の月面着陸に成功したモノ。13号は「成功した失敗」(Successful Failure)と称され映画化されたことでも知られています。1970年4月11月、地球から33万km離れた宇宙空間で事故発生。三回目となるはずの月面着陸を急遽断念。地球へのUターンを試み、奇跡的な帰還に成功したモノです。双方ともに人類の進歩に大きな貢献をしたのですが、ある意味、成功した11号より失敗した13号の方が大きな影響を与えました。

二つの実物が四分の一カットされ内部が見える状態で展示されていました。機体は小さく、機内の広さは『押入れ』程度。宇宙飛行士3人(男)が、肩を寄せ合い、息を潜め、励まし合っていた映画の一シーンが頭を過ぎりました。計器も機材も貧弱。こんな機器を手動で操縦しながら壮大な宇宙空間の中を小さいな地球へ向かって戻ってきたのか。そう思うと背筋が寒くなりました。

たった9年間の準備期間で月面着陸。ヒトの足跡を残してきた。その人類の英知と勇気は信じられないほどの偉大さを感じます。アポロ計画の数々の展示品の隅に、フランスの哲学者アランの言葉とされる有名な一節が記さていました。すなわち…

悲観は感情から生じ、楽観は意思から生じる
Le pessimisme est d'humeur; l'optimisme est de volonte

ちなみに、どこのスミソニアン博物館も拝観料は無料。特に小学生は優遇され、全員に有名なバッチが贈呈されます。子供たちは誇らしげにそのバッチを胸元に付けて館内を歩き回っています。それはスミソニアン協会創立者ジェームズ・スミソンの口癖だったとされる言葉で"You Can Do it!"(君ならキッド出来る)です。それが記された大きめなバッチです。宇宙飛行士になる夢を追っているスイス人の大学生も、幼い時のその日、胸元にあのバッチを付けて館内を観ていたに違いありません。色々な場所へ子を連れて行くことの大切さを痛感します。とは言っても、今の私には全てが遅すぎることなのですが…。

2010年8月22日日曜日

Japan as No.3

今から30年前、新鋭の社会学者だったハーバード大教授エズラ・ボーゲル博士が書いた『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(Japan as No.1)は世界的なベストセーラーとなり、日本では流行語にもなりました。本の趣旨は<世界一に成れるかも…>なのですが多くの日本人は<世界一に成れた>(Japan is No.1)と勘違い。舞い上がりました。本の中で博士は奇跡的な高度成長を成し遂げた日本の4つの社会システムをあげ、世界に類を見ない優れた国だと褒め称えました。その4つとは、①産官提携の強さ、②商品の質の高さ、③公共教育の水準の高さ、④治安の良さ、です。今となれば、どれもイマイチで、自慢できる話しではないように思えます。どうですかネ。

日本は今では世界第二位の経済大国ではなくなり、中国に抜かれ、第三位。そのうち韓国にも追いつかれ、もしかすると第四位になるかも知れません。

中国人の労働意欲の高さ、学識レベルの高さ、多国籍企業の受け入れ方などが優れていることから、『チャイナ・アズ・ナンバーワン』(China as No.1)なる本の執筆中なのでは…。韓国訪問時、大統領から執筆要請(Korea as No.2)があったのでは…。などなど、いずれも冗談ですが、要は、それほど日本の世界的な位置づけが変化しているわけです。

前記した本の中で<日本が世界一に成るための条件>として第一に挙げたのがリーダーシップ。つまり、官僚機構を掌握できる強力なリーダーシップを持った政治家が今後の行政のイニチシャチブを握るべきたと記しています。30年前も今も切実な課題がリーダーシップです。ハイ。博士は3年前に退官したそうです。

2010年8月21日土曜日

巧妙にお客を引き込む怖い話し

妙なことから若手のドキュメント作家とお酒を飲む機会がありました。彼は新手のMLM(マルチ商法)であるネットワークビジネスを研究しているとか。別世界の話しですが興味深く拝聴しました。

例えば、法律の網の目を潜る巧妙な手口や複雑怪奇な報酬の再分配の仕方など。いずれも、ぎりぎりセーフで合法的だと言うのですから不思議です。しかし、その光と陰の狭間で人生が狂い、転落する人々の哀れな姿。それは今も昔も変わりはないとのこと。『甘し汁には毒がある』ことを重々知りつつ深みにはまる人間の性。それにつけこむ悪な人々。彼らの餌食になる"お客"はあんがい高学歴で知的で堅実な女性が多いのだそうです。健康と美容がキーワード。それもお子さんが小学生の主婦とフリーのフィットネスインストラクターが二大ターゲットとのこと。悪な男たちは深い闇の中に隠れ、常に表面も出てくるのは女たち。それも"お客"と同世代の美人でゴージャスなビジネスレディー。それが今のトレンドなのだそうです。主婦はPTAやサークル活動を通じて横のつながりがあり、次の"お客"への連鎖が容易だから。一方、フリーのインストラクターはメンバーさんとの縦のつながりがある。それがターゲットにされる理由なのだそうです。 彼らは勉強会やセミナーと称するサクセス・ストーリーを披露するビジネスミーティングが大好きらしい。勉強会やセミナーへお誘いがあったら要注意とのこと。

"お客"になっている知人がいたら早めに忠告・助言を…。深入りしてからでは遅い。怖い話しです。

2010年8月13日金曜日

終戦日が近づくと思い出すあの人の顔・姿・涙

1945年8月14日、日本がポツダム宣言を無条件で受け入れ、太平洋戦争が終った日です。昭和天皇の有名な玉音放送は翌日(8月15日)。翌々年の正月に私は生まれました。父47歳、母42歳。よく生んだものです。これも終戦があったればこそ。終戦に感謝。

さて、1970年前半、私はフィリピンで3年間暮らしました。フィリピン各地にまだ戦争の傷跡が生々しく残っている頃です。日本政府もレイテ島を中心に度々遺骨収集団を組織的に送り出していました。それとは別に私的な立場で戦友の死を弔いに訪れる人々も結構多くいました。当時、現地語が話せる日本人が少なかったこともあり、時折、バイドの話しが来ました。そんな一つ、病院のお盆休みを利用して訪れた高知県のお医者さんがいました。ボラカイ島へご一緒しました。戦時中は縦横無尽に塹壕があったという小高い丘があり、その中にあった野戦病院に負傷兵を置き去りに…。その時の自戒の念と無念さ、20数年間、いつも悩まされていたとのこと。塹壕入り口はなかなか見付りません。当然ですが、深いジャングルが延々と続き、当時の地形とは異なっていました。集落の長老たちの尽力もあって、やっとそれらしき場所(置き去り)を発見。2日間の収集作業。事情を知った現地のヒトたち率先して手伝ってくれました。10名ぐらいはいたはずだと言うのですが、4名分の遺骨しか収集できませんでした。そのお医者さんは顔をグシャグシャにしてボロボロ泣きました。「すまなかった・・・許してくれ・・・」を連発。観ている私も涙・涙・涙でした。

もう一つ、同じお盆休みにフィリピンを訪れた宮城県の小学校の先生(女)。場所はルソン島中部のラオニオンの海岸です。生き残って帰れた戦友から手渡された一通の手紙。その色あせた紙片を握りしめ、泣き崩れました。当然ながら遺骨なし。海岸の砂を持ち帰りました。新婚早々、終戦間近くに召集されたそうです。その後、長女を出産。その娘さんが「お母さん。お父さんの最後の地で思いっきり泣いてくればイイよ」と肩を押してくれたのだそうです。涙・涙・涙でした。

終戦記念日がくるとあの人のあの時の顔や姿や涙を思い出します。あれから30数年、その後、あの人たちはどんな思いで暮らしているのでしょうか。